早川代官遺愛碑

早川代官遺愛碑

2024年4月20日先賢・循吏の史跡

江戸時代の天明年間から久世代官・笠岡代官を務めた早川八郎左衛門正紀まさとしは、赤子間引きの禁止や農桑の奨励、学校創設などさまざまな施策で疲弊した農村の復興に尽力し、4度にわたる留任願いが出されるほど領民に慕われました。代官が亡くなると、人々は「早川代官遺愛碑」や「恩徳碑」を建ててその業績を顕彰しました。

伝承の内容と背景

江戸幕府の尾花沢代官だった早川八郎左衛門正紀は、天明7年(1787)7月に美作国みまさかのくに大庭郡久世村(今の岡山県真庭市)の久世代官に転任しました。天明8年(1788)2月には石見国邇摩郡大森村(今の島根県大田市)の大森代官・蓑笠之助とともに預所として備中国小田郡笠岡村(今の岡山県笠岡市)に陣屋があった笠岡代官の職務を兼任、同年7月からは早川代官単独での兼任となっています。なお、前任の笠岡代官・万年七郎右衛門頼行は、田沼意次時代の奢侈がもとで切腹を命じられたともいわれます。

早川八郎左衛門は、前任の久世代官・守屋弥惣右衛門から事務の引継ぎを受けたところ、未決の訴訟が山積していることに驚き、就任早々、わずかな用人を連れ領内を巡視して民情を把握することにしました。

永山卯三郎『早川代官』には、久世の古老が伝える口碑として、早川代官が初めての巡視に出たところ、新庄川の柳の木の枝に、古い茣蓙でつくられたつとが引っ掛かっているのを見つけた話が載せられています。不審に思って代官が中身を確かめさせたところ、嬰児の遺体が入っていたのでさらに驚いたということです。この当時、経済的に貧しく子育てができない農民たちが「間引き」と称して嬰児を堕胎し、男の子は扇子、女の子は杓子を付けて、川に流す風習があったことが知られます。

早川代官は寛政元年(1789)、領内に制札を立てましたが、これには「我等はしめて廻村之みぎり。赤子まひき制禁之事。精々申渡。」として、巡視の際にも説諭したとおり、間引きは厳禁であり、子供の親だけではなく、隣家や村役人までも罪に問われることがあると記しています。

また、同年末に発布した「寺院方条々」の中でも、寺院には墓参りなどで地域の人々がしばしば集まるところから、赤子の間引きや博奕その他の悪事に手を染めぬよう教化を図るべきことを促しています。

さらに、寛政11年(1799)には、中国の古典や我が国の歴史の話を交えつつ、一般庶民に読み聞かせて教化を図るためのテキストとして、7か条の内容からなる『久世条教』を出版しました。

このうち1つ目の「勧農桑」では、稲作・麦作農業の重要性を述べるとともに、「海なき国には蚕の業を勤る事むかしよりの教え也」として、この地域の特性に合った養蚕についても奨励しており、実際に農家1戸につき1本ずつ桑の苗木を配布しています。

6つ目の「禁洗子」では、「此美作の人はむかしより習はしとて、間引と唱へ我子を殺す事、いかなる心ぞや、天地の道に背たる仕業なり」として、間引きは人倫にもとる行為であり、「重き御仕置」があると警告する一方で、貧困者が三子出生の際に申し出があれば「養育手当」として「鳥目五十貫文」ほどの金銭を支給することを周知しています。

寛政3年(1791)には久世の寺院を間借りして「仮教諭所」を開設、寛政8年(1796)に「典学館」と名を変えて久世村字西町に建物を新築し、庶民教育の振興を図りました。最初の都講(教師)には真野民次が就任し、後に儒者の菊池正因が招聘されています。ここでは毎月『久世条教』や『六諭衍義』などを読み聞かせたほか、早川代官自身が講義したり、都講が村々を巡回して講義することもありました。同様に、笠岡にも寛政10年(1798)に「敬業館」が開かれ、陣屋稲荷の神主であった小寺清先が都講を務めました。

そのほかにも、定免法から検見法への変更、耕作困難地の年貢軽減、荒畑の起返(おきかえし)の資金融資、困窮村方手当銀の創設、吉岡銅山や奥津温泉の再興、虎斑竹とらふだけの保存、十国茶屋の誘致など、早川代官が地域振興のために行った新施策は枚挙にいとまがありません。

江戸の国学者・小山田与清ともきよが記した『松屋筆記』には、「近来御代官に早川八郎左衛門、大貫次右衛門、小野田三郎右衛門など其仁徳世に風聞す」とあり、早川八郎左衛門は当時から広くその名が知られた名代官であったといえます。寛政10年に「美作国大庭郡四壱拾個村」ほか各村惣代から幕府に出された「早川八郎左衛門様作州久世御陣屋ニ御永住長久御支配被下度御願」はじめ、領民からはつごう4度の留任願いが出されており、その人気のほどがうかがえます。

14年の長きにわたる美作・備中での代官在任の後、享和元年(1801)に関東代官として武蔵国埼玉郡久喜本町(今の埼玉県久喜市)に転任した早川八郎左衛門は、文化7年(1810)、江戸の私邸において病気のため亡くなりました。

早川代官の没後、彼を慕う人々により、久世に菊池正因の撰文による「早川代官遺愛碑」が、笠岡に小寺清先撰文の「恩徳之碑」が建てられました。

参考文献

『民政資料久世代官早川八郎左衛門』(花土文太郎編 花土文太郎、1912年)
『早川代官』(永山卯三郎 岡山県教育会、1929年)
『江戸幕府の代官』(村上直 国書刊行会、1983年)
『久世町史』(久世町史編集委員会編 久世町教育委員会、1975年)

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早川代官遺愛碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

早川代官遺愛碑

場所

岡山県真庭市台金屋地内

備考

「早川代官遺愛碑」は、真庭市台金屋611-6所在の金屋農村公園の隣接地(道路よりも奥)にあります。なお、この場所には明治3年(1870)に郷学として「明親館」が開校しましたが、明治6年(1873)の「血税一揆」で焼き討ちに遭い廃止されました。遺愛碑、明親館とも真庭市教育委員会の解説板が建てられています。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)