下田隼人翁碑(下田隼人の直訴事件)
江戸時代前期、小田原藩は財政悪化を埋め合わせるため領内の総検地を実施するとともに、新税として麦租を導入しようとしました。万治3年(1660)、相模国足柄上郡関本村(今の神奈川県南足柄市)名主の下田隼人は、小田原藩主・稲葉正則に麦租反対を直訴し、死罪になったと伝えられています。下田隼人は死後密かに「錦織神社」に祀られたほか、明治時代にはその事績を顕彰する「下田隼人翁碑」も建てられました。
義民伝承の内容と背景
寛永9年(1632)、幕府老中で将軍・徳川家光乳母の春日局の子でもあった稲葉正勝が下野真岡から相模小田原へと入封します。
ところが翌年の寛永10年(1633)にはマグニチュード7クラスという「寛永小田原地震」が発生し、小田原城の修復や城下町の復興に多大な経費がかかり、藩財政の逼迫を招きました。
このため、藩は万治元年(1658)から翌年にかけて「万治の惣検地」を行うとともに、これまでになかった麦に対する課税として麦租を導入し、財政悪化の埋合せをしようとしました。
足柄上郡・下郡148か村の百姓は、これに対して一揆を起こそうとしますが、足柄上郡関本村名主だった下田隼人は百姓らを宥めるとともに、2代目藩主・稲葉正則の行列に対して駕籠訴に及びました。
この下田隼人の直訴により麦租は撤回されましたが、自身は入牢の末に死罪及び跡式欠所を申し付けられ、万治3年(1660)12月23日に小田原城下の牢屋町の刑場(今の小田原市浜町あたり)で処刑されたといわれています。
下田隼人の遺骸は関本村にあった龍福寺の住職・重阿上人が引き取って埋葬し、相阿弥陀の法名を付けて仮の墓碑がつくられました。
また、生前の下田隼人が小田原城下に出向く際に須藤町(今の小田原市栄町あたり)の宿を決まって利用していたことから、同町鎮座の錦織神社(大正時代に大稲荷神社境内に遷座)にも祭神として密かに祀られました。
なお、もとの檀那寺は雨坪村(今の南足柄市)弘行寺でしたが、住職が助命嘆願をせず下田家と不和になり、檀那寺が龍福寺に替えられたという伝承もあり、こちらにも「観理日円」の法号をもつ墓が存在しています。
明治以降になると大々的に義民として再評価され、大正11年(1922)になってから菩提寺の龍福寺に「下田隼人翁碑」が建てられ、法学者や枢密院議長として有名な一木喜徳郎が題額を記しています。
参考文献
『小田原藩の研究』(内田哲夫 内田哲夫論文集刊行会、1996年)
『小田原市史』通史編 近世(小田原市 小田原市、1999年)
下田隼人翁碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
下田隼人翁碑
場所
神奈川県南足柄市関本1040
備考
東名高速道路「大井松田インターチェンジ」から車で10分。神奈川県道78号御殿場大井線沿いの菩提寺・龍福寺境内にある大きな石碑で、基壇には「相阿弥」と刻んだ小さな古い墓碑が埋め込まれている。