池田三郎左衛門之碑(池田三郎左衛門の強訴)
慶長16年(1611)、増税に苦しむ上総国望陀郡田川村(今の千葉県木更津市)の名主・池田三郎左衛門は、十数度にわたって幕府に再検地を求め、願いは認められたものの、強訴の罪をもって処刑されたと伝えられています。地元には池田三郎左衛門の木像を安置する「十王堂」があり、明治時代には田川の神明神社境内に「池田三郎左衛門之碑」も建てられました。
義民伝承の内容と背景
幕府の直轄地であった上総国望陀郡田川村では、慶長14年(1609)に代官となった小川新九郎により検地が厳しく行われた結果、年間の収穫だけではなお納めるに足りないほど年貢の負担が増大しました。
名主の池田三郎左衛門はこれに憤慨し、再検地を求めて幕府に直訴するものの容れられず、さらに十数度わたって書面を提出し、ようやく中山源三・中野七蔵による再検地が行われ、三郎左衛門の主張が正しいことが認められました。
これにより年貢は元通りに軽減され、小川新九郎は遠島を申し付けられたといいますが、一方の池田三郎左衛門のほうも強訴の罪を問われ、慶長16年(1611)11月15日に下部多山において処刑され、田畑も没収されてしまいました。
その際改めて審理したところ死罪に当たらないことがわかり、刑を停止するように急遽派遣された使者が大声で叫んだ場所が今に残る「遠声橋」ですが、結局間に合わずに処刑されてしまったという話も伝わっています。
23歳の若さで亡くなった三郎左衛門を悼み、村人たちは遺骸を葬った下部多山に墓標代わりの松を植えるとともに、村にお堂を建てて三郎左衛門の木像を祀りました。
「おびんずる(賓頭盧)さま」と呼ばれるこの像は、三郎左衛門の60歳になる母が彫らせたもので、日照りの際に水路まで担いで行って頭の上から水を注ぐと、不思議と雨が降ったといいます。
また、三郎左衛門には当時3歳の娘がいたため、村人たちが相談して里見氏の遺臣・神納右衛門を配偶者として家を継がせ、後に幕府を憚り進藤氏と姓を改めて、取り上げられた田畑も旧に復しています。
明治19年(1886)には、池田三郎左衛門の事績を顕彰するため、戸長の溝口貞吉が中心となって、漢学者の岡千仭の撰文による「池田三郎左衛門之碑」が田川の神明神社境内に建てられました。
参考文献
『千葉県君津郡誌』上・下(君津郡教育会 君津郡教育会、1927年)
池田三郎左衛門之碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
池田三郎左衛門之碑
場所
千葉県木更津市田川地内
備考
首都圏中央連絡自動車道「木更津東インターチェンジ」から車で10分。田川集落の奥、神明神社の参道石段を上った先の境内正面向かって左側斜面にある。