義人大多和四郎右衛門自刃之地碑(大多和四郎右衛門の切腹伝承)
寛永20年(1643)上総国山辺郡東金町(今の千葉県東金市)の名主・大多和四郎右衛門は、飢饉に際し佐倉藩の米蔵を無断で開き、百姓に米を分け与えると、その責を負って切腹したと伝えられています。戦後、四郎右衛門が切腹した石切橋の辺りには「義人大多和四郎右衛門自刃之地」が建てられました。
義民伝承の内容と背景
寛永19年(1642)、上総国山辺郡東金町を干魃が襲い飢饉に見舞われたため、名主の大多和四郎右衛門は、米倉の在庫を放出して困窮した百姓に分け与えるよう、領主である佐倉藩堀田氏に訴えましたが、聞き入れられることはありませんでした。
これより先、慶長10年(1605)の飢饉の際には、市東刑部左衛門という元武士が年貢の減免と御救米の放出を幕府の役人に願い出たものの横暴な対応をされたため、役人を斬り殺して米倉を開放し、百姓に貴重な米を分け与えた上で、自身は菩提寺である西福寺に駆け込むと本堂内で切腹するという事件がありました。
そこで大多和四郎右衛門もこの市東刑部左衛門に倣って、みずからも領主の許可を得ずに米倉を勝手に開放し、飢えた百姓たちに米を分配してしまいます。
時に寛永20年(1643)8月15日、大多和四郎右衛門48歳のことといわれますが、四郎右衛門はこの大罪の責任をとり、長男の籠千代とともに道庭村(今の東金市)の石切橋の辺りで自刃して果てました。
地域では市東刑部左衛門と並ぶ義民として伝承され、いつしか大多和四郎右衛門が切腹した石切橋には「義人大多和碑」と刻まれた小さな石碑が建てられました。
戦後の昭和29年(1954)になると、大多和四郎右衛門の事績に感銘を受けた地元の実業家・政治家である内山常治郎によって、この小さな石碑の近くにさらに大きく立派な「義人大多和四郎右衛門自刃之地」の石碑が建てられました。
参考文献
『千葉県誌』巻下(千葉県編 多田屋書店、1919年)
『東金市史』第5巻 総集編(東金市史編纂委員会 東金市役所、1987年)
義人大多和四郎右衛門自刃之地碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義人大多和四郎右衛門自刃之地碑
場所
千葉県東金市道庭地内
備考
首都圏中央連絡自動車道「東金インターチェンジ」から車で10分。千葉学芸高校総合グランド敷地に隣接し、前面道路沿いに「義人大多和の碑入口」と彫られた小さな道標がある。石碑は道路より少し奥まった墓地内に位置する。