鈴木源之丞供養塔(鈴木源之丞と籾摺騒動)

死後神に祀られた義人の供養塔

2023年5月31日義民の史跡

明和元年(1764)、宇都宮藩の年貢増徴に反対して百姓4万5千人が宇都宮城下で打ちこわしを行う「籾摺騒動」が起こり、頭取として下野国河内郡御田長島村(今の栃木県宇都宮市)庄屋の鈴木源之丞らが打首となりました。その後、源之丞を供養するため鎮守の杜に無銘の供養塔が建てられたほか、神として小祠にも祀られました。

義民伝承の内容と背景

肥前島原から下野宇都宮に転封となった松平忠祇(ただまさ)は、藩財政を立て直すため、五合摺(年貢の計算上、籾1升を脱穀すると精米5合が得られると換算すること)から六合摺への変更による年貢増徴を図ります。

領内百姓は五合摺を先例としていたことを盾に年貢減免の嘆願を行うものの聞き届けられなかったことから、明和元年(1764)9月に領内2百か村から4万5千人が八幡山に集合する「籾摺騒動」の大一揆が勃発し、宇都宮城下の豪商の屋敷などが打ちこわしの被害を受けます。

宇都宮藩では大目付の松野源太夫が出て百姓の慰撫に努めますが、一揆はなお数日続いた上で鎮圧され、ほどなく一揆の頭取として御田長島村庄屋の鈴木源之丞、上平出村庄屋後見の水沼亀右衛門(太郎兵衛とも)、今泉新田庄屋の増淵六平ら(いずれも今の宇都宮市)が捕らえられ、城下引回しの上、明和2年(1765)10月に土堂原刑場において打首となりました。

鈴木源之丞らの処刑後の明和3年(1766)、宇都宮城下は大洪水に見舞われ、これは「源之丞洪水」として、無念の死を遂げた義民たちの怨念によるものと噂されました。

その後、御田長島村の鎮守の杜には藩を憚り戒名などの文字をまったく刻まない六角柱の供養塔が建てられたほか、鈴木源之丞は高尾神社の境内社に「喜国大明神」として、水沼亀右衛門と増淵六平は平出雷電神社の境内社にそれぞれ「喜国権現」「喜国明神」として祀られました。

参考文献

『宇都宮市史』第6巻(宇都宮市史編さん委員会 宇都宮市、1982年)
『宇都宮郷土史』(徳田浩淳 文化新報社、1959年)
『栃木県史』通史編5 近世2(栃木県史編さん委員会 栃木県、1984年)

鈴木源之丞供養塔の場所(地図)と交通アクセス

名称

鈴木源之丞供養塔

場所

栃木県宇都宮市御田長島町地内

備考

北関東自動車道「宇都宮上三川インターチェンジ」から車で10分。日光街道(国道4号)沿いの「セブンイレブン宇都宮末広店」角をまっすぐ東に進むと、市道沿いの入口(信号機の一つ手前の交差点)に「源之丞墓」とある小さな矢印型の木標が立っています。この木標に従って農道を南に進むと、高尾神社北東の覆屋内に「鈴木源之丞供養塔」が建てられています。

関連する他の史跡の写真

高尾神社(喜国神社)
平出雷電神社(喜国権現及び喜国明神)

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)