慈眼寺(細野冉兵衛と志戸崎騒動)
2023年5月30日義民の史跡
天保5年(1834)、常陸国新治郡坂村(今の茨城県かすみがうら市)において、名主が土浦藩の役人と結託して不正を企てた疑惑を調べていた百姓・貝塚恒助が役人に捕縛されたため、東郷名主惣代・細野冉兵衛が逆に役人を捕縛する騒動が起こりました。この「志戸崎騒動」により名主は御役御免となるものの、冉兵衛は牢死し、恒助も打首となりました。現地には百姓が寄合を開いた「慈眼寺」や、冉兵衛・恒助それぞれの墓が残っています。
義民伝承の内容と背景
天保5年(1834)、常陸国新治郡坂村において、名主・長左衛門が土浦藩の出役(代官)・高野喜蔵と結託し、年貢米を不当徴収して私腹を肥やしていた疑惑が持ち上がります。そこで坂村の貝塚恒助が発頭人となり、同村志戸崎の慈眼寺や歩崎観音で寄合を開き対応を協議するとともに、豪放な性格で人望の厚い隣村深谷村(今のかすみがうら市)の東郷名主惣代・細野冉兵衛にも嘆願を行いました。
細野冉兵衛は私財を投じて荒地を開墾し、藩主・土屋英直から「幾とせもこころをこめてふかやなる松もろともに民もさかへぬ」という和歌を贈られたり、土浦藩領であった出羽国村山郡(今の山形県天童市ほか)に奥州鎮撫使として派遣され、百姓一揆の説得に成功して苗字帯刀を許されたほどの功績の持主でした。
恒助は冉兵衛の助言に従い証拠を集めようと、留守中の叔父宅に上がり込んで年貢の割当を記した小割付帳を調べていたところ、代官に見つかって捕らえれてしまいました。そして連絡を受けた冉兵衛は、百姓の味方をして逆に代官を捕縛の上で自宅に連行したことから、藩から鉄砲で武装した捕方が出動する騒ぎとなりました。
これが「志戸崎騒動」の顛末ですが、藩は冉兵衛の功績に免じて「耄碌」で済まそうとしたものの、本人が強固に否定したため永牢が申し渡され、天保6年(1835)正月に72歳で牢死しました。貝塚恒助も天保5年12月(1835年1月)25日、行年25歳で打首となりますが、死後に義民であることを示す「宝性院行義説民居士」の名が贈られ、菩提寺の長福寺に葬られました。一方で土浦藩出役は追放、坂村名主は御役仰免となり、百姓側の犠牲を伴いながらも騒動は幕引きとなりました。
参考文献
『茨城県史』市町村編3(茨城県史編さん市町村史部会 茨城県、1981年)
慈眼寺の場所(地図)と交通アクセス
名称
慈眼寺
場所
茨城県かすみがうら市志戸崎788
備考
常磐自動車道「土浦北インターチェンジ」から車で30分。「かすみがうら市水族館」前の道路を西へ600メートルほど道なりに進んだ集落内にあります。
関連する他の史跡の写真
項目23 慈眼寺(54~55ページ)内容写真、アクセス、人名解説(細野冉兵衛)、義民伝承とその背景、周辺の関連史跡(細野冉兵衛の墓、貝塚恒助の墓)、案内地図、参考文献
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村松 風洽(フリーライター)