戸塚義民の墓(戸塚村善兵衛と戸塚騒動)

代官切腹の伝説もある一揆の犠牲者の墓

2023年5月29日義民の史跡

寛延2年(1749)、陸奥国白川郡戸塚村(今の福島県東白川郡矢祭町)では2年続きの不作で百姓が困窮し、塙代官所に年貢延納や金米借用を強訴する「戸塚騒動」が勃発しました。翌寛延3年(1750)2月には代官所を百姓2千人が包囲し、安楽寺に逃れた代官・筧伝五郎が切腹したとも伝えられます。結果として百姓の要求は認められますが、頭取の戸塚村長百姓・善兵衛が獄門となったのをはじめ、多くの百姓が処罰を受けました。戸塚村観音堂には後に善兵衛ら犠牲者の墓が建てられました。

義民伝承の内容と背景

陸奥国白川郡戸塚村では、寛延元年(1748)の干魃、翌年の長雨で2年続きの不作となり、百姓の困窮は深まりました。

すでに幕府領の信達両郡や三春・守山・会津・二本松各藩での一揆の風聞が伝わっていたため、寛延2年(1749)12月、戸塚村の百姓一同は大挙して塙代官所に押し掛けました。

百姓らは要求が却下されると江戸表への直訴を企て、戸塚村長百姓の善兵衛らを中心に、塙代官所支配中11か村名義をもって、年貢延納や村高100石につき金20両の借用などを訴願しました。

代官の筧伝五郎至方は常時江戸に住んで現地の手代に指示していましたが、幕命を受けて塙代官所に下向し、寛延3年(1750)1月11日に到着後、11か村の名主らを取り調べて入獄を申し付けるなどしています。

これを知った領内の百姓は続々と代官所に駆けつけ、2月12日には竹槍や鎌を持った百姓2千人が取り囲む事態となったため、代官はいったん安楽寺(今の東白川郡塙町)に逃れました。

やがて安楽寺も一揆勢が包囲し、代官が出てこなければ寺に火をかけると脅したため、観念した代官は寺の押入れで切腹し、隣接の棚倉藩主・小笠原長恭が塙に出兵するに及んでようやく投降したと伝えられています。

ただし、公式には塙代官所での吟味中の病死とされ(そのため切腹は史実ではないとされる)、急遽4月に伊王野代官の吉田久左衛門が出張し、5月には小名浜代官の風祭甚三郎と交代して引き続き取調べが行われています。

寛延3年11月29日、発頭人である戸塚村長百姓善兵衛の獄門、戸塚村長百姓幸介及び木野反村(今の塙町)名主七三郎の死罪が行われ、一連の「戸塚騒動」では559人が処罰を受けました。

一方で12月には塙代官所から年貢の延納、村高100石あたり20両の借金、種籾や夫食米の貸下げが正式に認められています。

戸塚村の観音堂境内には後に処刑された善兵衛・幸助と遠島になった七左衛門の墓が建てられ、戦前には観音堂入口に徳富蘇峰撰文の「義民弔魂碑」も造立されました。

参考文献

『矢祭町史』第1巻 通史・民俗編(矢祭町史編さん委員会 矢祭町、1985年)
『塙町史』第1巻 通史・旧村沿革・民俗(塙町 塙町、1980年)
『世直し一揆の研究』(庄司吉之助 校倉書房、1970年)

戸塚義民の墓の場所(地図)と交通アクセス

名称

戸塚義民の墓

場所

福島県東白川郡矢祭町大字戸塚地内

備考

東北自動車道「白河インターチェンジ」から車で1時間。「戸塚正観音堂」境内正面向かって左に位置し、同型の墓碑3基が並んでいるうち中央に「正心道覚信士位」とあるのが善兵衛、左の「直心即浄信士位」が幸助、右の「唯心無外禅定門位」が七左衛門のものです。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)