南山義民之碑(南山義民と会津御蔵入騒動)
享保5年(1720)、生産性が低く年貢やその輸送の負担が大きかった会津御蔵入領の百姓らが江戸に上り負担軽減を直訴する「会津御蔵入騒動」が起こりました。結果として一帯は会津藩預地となり要求は実ったものの、小栗山村喜四郎らが晒首となりました。戦前には一揆の犠牲者を顕彰するための「南山義民之碑」などが建てられています。
義民伝承の内容と背景
現在の福島県南会津郡・大沼郡一帯は、江戸時代半ばには「南山御蔵入領」として幕府直轄地になっていました。江戸と奥州の中間に位置する要地ではあるものの、豪雪地帯で地味に乏しく、広大な面積の割に石高は5万石を超える程度でした。
百姓は年貢の増徴や年貢米を江戸に輸送する労役で疲弊し、ついに享保5年(1720)11月26日、下郷の百姓が田島代官所を取り囲み、年貢減免や石代納(年貢米の金納)、郷頭(村役人)制の廃止などを求める強訴を行います。
しかし、代官所では権限を越えるとして埒が明かず、翌年に布沢村名主・孫右衛門を頭取とする代表15名が江戸に上り、幕府勘定所に訴状を提出しました。
事態を重く見た幕府は、江戸に上った名主らが地域代表であるという根拠を崩す作戦に出て、彼らが国許不在の間に領内全戸の取調べを始め、恐怖を感じた百姓らから、一揆の資金を出すことを強制されたなどの言質を引き出します。
その結果、享保7年(1722)、孫右衛門弟の茂左衛門をはじめ、小栗山村喜四郎・新遠路村久次右衛門・滝沢村喜左衛門・黒谷村儀右衛門・界村兵左衛門の6人が一揆を扇動したとして死罪獄門と決まり、小栗山喜四郎のみ田島で、残りは江戸で処刑され、首は田島に送られて鎌倉崎(今の福島県南会津郡南会津町)に晒されました。
この一件を「会津御蔵入騒動」といいますが、幕府も代官・山田八郎兵衛を罷免し、南山を会津藩預地とすることにより、実質的に江戸廻米の中止や新税の一部廃止を行ったため、地元では彼らを義民として讃えました。
昭和3年(1928)、丸山公園内に地元の漢学者・杉原夷山撰文による「南山義民之碑」が建てられたほか、昭和16年(1941)にも詩人の土井晩翠が「目にみえぬ神秘の力我を引き義民の墓に今日詣でしむ」と詠むなどしています。
参考文献
『田島町史』第2巻(田島町史編纂委員会 田島町、1988年)
『会津御蔵入騒動と寛延一揆』(海老名敏雄 歴史春秋出版、1996年)
南山義民之碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
南山義民之碑
場所
福島県南会津郡南会津町田島地内
備考
磐越自動車道「会津若松インターチェンジ」から車で1時間の「丸山歴史公園」にあります。「旧南会津郡役所」駐車場から建物の裏手に回ると、登山口の入口に六地蔵と石碑が並んでいます。