井之宮神社(中条右近太夫と嶺田村越訴)
寛永3年(1626)、遠江国城東郡嶺田村(今の静岡県菊川市)の中条右近太夫は、水不足に悩む村人たちのため、密かに土地を測量の上で、灌漑用水の開削を将軍に直訴しました。右近太夫は処刑されるものの、天下普請により「嶺田用水」が完成したことから、後に「井之宮神社」の祭神として祀られました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代前期、遠江国城東郡嶺田村では水源に恵まれず旱害に悩まされており、慶長12年(1607)に徳川家康が鷹狩のため同地を訪れた際にも、近習の丹羽弥惣を通じて水路を掘るよう指示がありましたが、ほどなく家康が亡くなったため実現には至りませんでした。
この地で農業を営む中条右近太夫は、父母が健在の時分には孝養を尽くすことを専一にしていましたが、やがて父母が亡くなると、村人のために隣村の奈良渕から水を引いて農地を灌漑することを決意します。
その際、妻と離縁し罪が及ぶのを避けた上で、子供と凧揚げをして糸を伸ばしたり、松の木に登ったり、民家の床下に潜り込んだりと、気が触れたふりをして「紙鳶狂」と呼ばれながらも密かに土地の測量を行ったといわれています。
中条右近太夫は測量の成果をもとに横須賀城主に用水路開削を訴願するもの、奈良渕が他領だったために認められず、やむなく江戸に赴き将軍・徳川綱吉の上野寛永寺参詣の折に直訴を行いました。
時に丹羽弥惣が存命だったためその願いは認められたものの、偽って他領に入り込み無断で測量をした罪は逃れ得ず、越訴のため身柄を領主に下げ渡された上、寛永3年(1626)1月23日に処刑されたと伝わっています。
中条右近太夫の悲願である用水路は、天下普請により延宝6年(1678)に「嶺田用水」として完成し、現在に至るまで貴重な水源として使用されています。
そして嶺田の地を旱害から救った中条右近太夫は、いつしか井之宮神社に祭神として祀られるようになりました。
この神社に隣接する長安寺には中条右近太夫の墓がありましたが、現在は神社境内の拝殿前に移され、地輪に「為一住常心庵主菩提」と戒名を刻む真新しい五輪塔として再建されています。
参考文献
『義民伝承の研究』(横山十四男 三一書房、1985年)
井之宮神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
井之宮神社
場所
静岡県菊川市嶺田1番地の1
備考
東名高速道路「菊川インターチェンジ」から車で15分、平田交差点の西1キロメートル、菊川沿いに鎮座する。隣接地には長安寺がある。