勇吉宮(堀内勇吉の越訴)
文化6年(1809)、信濃国小県郡入奈良本村(今の長野県小県郡青木村)の百姓たちは、宿場の新建て反対と庄屋の非違を訴願するため上田城下に押し寄せ、頭取の堀内勇吉が永牢となりました。勇吉は後に「勇吉宮」に祀られ、今も現地には小祠が鎮座しています。
義民伝承の内容と背景
文化6年(1809)、信濃国小県郡入奈良本村では、南方の市之沢に新たな宿場を建てる話が持ち上がり、庄屋が強引に進めようとしたことに対して他の百姓らの反発を招きます。
6月27日にはこれら入奈良本の百姓90人が、宿場新建てや庄屋・堀内藤五郎親子の不正について訴願するため、組頭の堀内勇吉を頭取として、3手に分かれて上田城下に押し出す事態となりました。
百姓らは城下町の問屋や割番庄屋のもとで足止めされ、奉行所に対して願書を差し出す愁訴のかたちをとることになりました。また、問屋らは当事者間の内済(示談)で済ませようと斡旋に乗り出すものの、勇吉以下の百姓に納得しない者があったことから失敗に終わりました。
奉行所で1年ほどの吟味の結果、百姓らの願いは認められて庄屋も罷免されましたが、参加した百姓らも処罰を受け、永牢を命ぜられた組頭の勇吉は、文化7年(1810)12月14日に病のため獄中で亡くなりました。
その後、村人たちによって堀内勇吉を義民として祀る「勇吉宮」の小祠が建てられ、明治時代初期までは訴訟を起こした6月27日に村の仕事を休みとして祭祀を行う習わしとなっていたとのことです。
なお、この愁訴事件があったときの頭取である堀内勇吉の年齢57歳が、さきの「上田騒動」の頭取を務めた清水半平の年齢と同じであり、しかも宝暦11年(1761)と同じく巳年に起きたことの類似性も指摘されています。
参考文献
『信濃の百姓一揆と義民伝承』(横山十四男 郷土出版社、1986年)
『青木村誌』歴史編上(青木村誌編纂委員会編 青木村、1994年)
勇吉宮の場所(地図)と交通アクセス
名称
勇吉宮
場所
長野県小県郡青木村大字奈良本地内
備考
上信越自動車道「上田菅平インターチェンジ」から車で40分、県道181号下奈良本豊科線沿いの増田本店から恋渡神社方面へ坂道を250メートル上る。