天明山中騒動記念碑(北沢清兵衛と天明山中騒動)
浅間山大噴火の影響が残る天明4年(1784)、信濃国松代藩領の山中地方(今の長野県)の百姓たちが「天明山中騒動」を起こし、大挙して酒屋に押借しつつ松代城下に迫りますが、藩役人と交渉の末に解散を決めました。この一揆では水内郡地京原村(今の長野市)の北沢清兵衛が頭取としての責を負い永牢となったことから、地元に「天明山中騒動記念碑」が建てられています。
義民伝承の内容と背景
天明3年(1783)7月、浅間山が大噴火(「浅間焼け」)を起こし、松代藩領の信濃国水内郡、いわゆる山中地域でも多くの被害を蒙りました。松代藩でもさすがにこの年は年貢を減免していますが、翌年には領内の豊作を理由に、これまで延納されてきた年貢の納入や拝借金の返済を村役人に申し渡しました。
噴火の影響がまだ残る山中地域では葛の根を掘り飢えをしのぐ有り様だったことから、念仏寺村と伊折村(いずれも今の長野市)、久木村(今の上水内郡小川村)の村役人が町宿に集い対応を協議しました。松代藩は噴火後の米価高騰の時期にも酒造を奨励していたことから、富裕な酒屋のもとに百姓が多人数で押し掛けて藩の権威を盾に借金を認めさせ、藩への返済に充てることに話がまとまりました。
天明4年(1784)11月12日、八幡宮(武水別神社)の大頭祭の日にあわせ念仏寺村の城の平に集まった山中地域の百姓は、途中で酒屋に無心して借金証文を受け取りつつ松代城下を目指して進み、総数1万5千人余りとなりました。城下に入る手前の二ッ柳まで出張ってきた役人に制止された一揆勢は、拝借金の据置きや酒造の減産などを役人に認めさせて解散しました。
翌天明5年(1785)にはこの「天明山中騒動」の責任追及が始まり、多数の百姓が捕縛されますが、寺院による減刑嘆願もあって、地京原村の北沢清兵衛が永牢となるものの、百姓側からの極刑は免れています。
清兵衛はその後病気で出獄し、子の清助が面倒を見ていましたが、寛政4年(1792)に松代で死去しました。清兵衛は人望に厚く、遺骸は駕籠で故郷まで丁重に運ばれ、沿道には村の百姓が集まり出迎えたといいます。子の清助も「我等親清兵衛義誠ニ無実之罪ニ墜入候事末之世迄茂心外ニ存し候」との一念から父の無実を証明する『天明飢饉騒動録』を郡奉行に提出したほか、石門心学「恭安舎」の舎主として地域の教育に努めるなどしています。
地元には清兵衛の墓や清助の弟子による筆塚が残りますが、平成14年(2002)には郷土の義民顕彰を目的に「天明山中騒動記念碑」も建てられました。
参考文献
『長野県史』通史編第6巻(近世3)(長野県 長野県史刊行会、1989年)
天明山中騒動記念碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
天明山中騒動記念碑
場所
長野県長野市中条御山里地内
備考
上信越自動車道「長野インターチェンジ」から車で40分。長野県道31号長野大町線沿いに「天明山中騒動記念碑入口」標識があるものの、以降は幅員狭く急峻な坂道のため運転には要注意のこと。