横吹地蔵尊(上新田村藤助と安永中野騒動)
安永6年(1777)、年貢皆済期日の前倒しを命じられた信濃国(今の長野県)中野陣屋支配の村々が蜂起し、近隣諸藩の出兵により鎮圧されました。この「安永中野騒動」の頭取として上新田村(今の飯山市)藤助らが獄門となり、供養のために「横吹地蔵尊」が営まれました。
義民伝承の内容と背景
安永5年(1776)、信濃国中野陣屋支配の村々の名主らは、代官・臼井吉之丞から突然に翌年正月15日までの年貢皆済を命じられました。ただでさえ連年の旱魃と洪水で疲弊しており、積雪のある時期に年貢皆済は困難として、例年どおり3月までの繰延べを嘆願するものの、代官はこれを拒否しています。
そこで上新田村年番組頭の藤助は、野坂田村(今の飯山市)治部左衛門らと相談の上で領内各村に廻状を送り、皆済期限が押し迫った安永6年(1777)正月12日、高井・水内両郡71か村の百姓を木島平耕地に集めました。
性急な年貢皆済命令を「村々古名主之仕業」と唆された百姓たちは、実際に年貢の徴収を請け負っていた割元の善右衛門はじめ村々の名主の屋敷を打ちこわし、中野陣屋にまで押しかけて年貢の繰延べを要求しました。
この「安永中野騒動」は近隣の飯山藩や松代藩からの出兵により鎮圧されましたが、その後は厳しい取調べが行われ、上新田村藤助・野坂田村治部左衛門の2人が徒党強訴の頭取として横吹において獄門に懸けられました。もっとも67歳と高齢の治部左衛門は、若者に罪科が及ばないよう「世衆の身代り」に頭取を引き受けたといわれます。
地元では2人の霊を慰めるため、梟首のあった横吹に地蔵尊を建立したほか、伊勢社境内にも「金比羅様」として密かに藤助の霊を祀る小祠を建てて供養しました。
参考文献
『長野県史』通史編 第5巻(長野県編 長野県史刊行会、1988年)
横吹地蔵尊の場所(地図)と交通アクセス
名称
横吹地蔵尊
場所
長野県飯山市木島地内
備考
上信越自動車道「豊田飯山インターチェンジ」から車で15分。市街地から千曲川に架かる綱切橋を渡ってすぐの県道沿いにある。