道閑公園(園田道閑と浦野事件)
寛文5年(1665)、加賀国(今の石川県)鹿島半郡で給人・浦野孫右衛門が検地に反対し、十村役・園田道閑らもこれに同調したところ、加賀藩主の裁定により孫右衛門は切腹、道閑は磔となりました。現地にはこの「浦野事件」で刑死した道閑を供養するための墓碑や顕彰碑などが建てられています。
義民伝承の内容と背景
能登国の鹿島半郡(鹿島郡の二宮川以西)3万1千石は、長連龍が天正年間に織田信長から所領を安堵された経緯もあり、加賀藩成立後も引き続き藩主である前田家から長家直接支配が認められ、金沢城下のほか地元田鶴浜村(今の七尾市)にも館がありました。そして長家の家臣団にも、金沢が拠点の家老・加藤采女の一派と、田鶴浜が拠点の浦野孫右衛門ら給人との対立がみられました。
この間、加賀藩は領内に改作法を施行し、給人支配を排除して年貢増徴を図ろうとしていましたが、例外扱いだった鹿島半郡でも、在地家臣による隠田開発の風聞が立ったことから、寛文5年(1665)に検地実施の命が下りました。
これを加藤一派の差し金とみた浦野孫右衛門は一族で起請文を交わして結束し、鉄砲などの武具を揃えて強固に検地に反対しました。久江村の十村役を務める園田道閑ら有力農民もこれに同調し、「検地申付候儀迷惑存候」と検地中止を嘆願する連判状を領主の長連頼に提出しています。
事態収拾を困難と見た領主の長連頼は、寛文7年(1667)、藩重臣に宛てて浦野一派の罪状を記した覚書を提出し、この一件を藩の裁許に委ねました。江戸にいた藩主・前田綱紀は幕府老中らと協議の上、同年中に浦野孫右衛門を切腹、園田道閑を磔、道閑倅3人を刎首とする判決を下しました。
検地後の鹿島半郡の石高は3万1千石から5万5千石に変わり年貢負担が増えたことから、検地に反対した道閑は義民と讃えられ、地元の臼摺歌にも「おいたわしやところやちの道閑様は七十五村の身代りに」と歌われました。文化13年(1816)の百五十年忌には久江村に「迎覚院道性禅門位」の墓碑が建立され、現在は顕彰碑とともに「道閑公園」として整備されています。
参考文献
『石川県史』第弍編(石川県編 石川県、1928年)
道閑公園の場所(地図)と交通アクセス
名称
道閑公園
場所
石川県鹿島郡中能登町久江ハ地内
備考
のと里山海道「上棚矢駄インターチェンジ」から車で15分。久江交差点から南東に500メートル進むと、駐車場への入口に案内の標柱がある。