漁民義人塚(佐賀野屋久右衛門とバンドリ一揆)
享保元年(1716)、越中国放生津町(今の富山県射水市)では加賀藩により特権を認められた「六軒問屋」に対する反発が高まり、漁民400人が奉行所に強訴する「バンドリ一揆」が起こりました。この責任を負って惣代の佐賀野屋久右衛門ら2人が処刑されますが、「六軒問屋」は廃止されたことから、感謝した人々によって「漁民義人塚」が建てられています。
義民伝承の内容と背景
加賀藩は金沢城下に集住する武士の食料需要に対応するため、領内の湊や浦の指定した魚問屋に特権を与え保護しており、越中国放生津町では「六軒問屋」が成立していました。この「六軒問屋」は、平素は漁民に資金を前貸しする代わりに漁獲物を一手に集めて独占し、1割の口銭(手数料)を徴収して売り捌いていました。
ところが享保元年(1716)の不漁の際には役人に賄賂を贈る一方で、貧しい魚民には漁具を買う資金を貸さず、買い上げた魚の代金も支払わないなど横暴な振舞いが目立ったため、10月にバンドリ(蓑)姿の400人が金沢城下の公事場奉行所に押しかけ強訴する「バンドリ一揆」が発生しました。
金沢の公事場奉行所では、東放生津惣代の佐賀野屋久右衛門と西放生津惣代の四歩市屋四郎兵衛(嵐四郎平)の2人を残して他の漁民を帰村させますが、彼らは役人の賄賂を痛烈に非難したことから一揆の責任を一身に負わされ、享保3年(1718)2月6日に放生津西浜において処刑されました。
藩は六軒問屋を廃止し、改めて放生津漁場(市場)を設けて6人の魚吟味人を選ぶとともに、口銭を1割から8分に引き下げ、吟味人の役料と六軒問屋からの借金の10年賦返済に充当することとなりました。さらに余った資金は不漁や水難事故に備えた一種の保険金として積み立てられたことから、後の漁業の発展にも大きく寄与しています。
地元では2人を「世直し義人」として顕彰する「漁民義人塚」を建てるとともに、後難を恐れて供養を申し出る寺院がない中でその役目を買って出た曹洞宗の長朔寺に位牌を置き、現在も引き続き供養がなされています。
参考文献
『近世都市騒擾史』(原田伴彦 思文閣出版、1982年)
漁民義人塚の場所(地図)と交通アクセス
名称
漁民義人塚
場所
富山県射水市港町地内
備考
北陸自動車道「小杉インターチェンジ」から車で20分。富山県道350号堀岡新明神能町線沿い入口にある標識に従い進む。