憲盛法印大供養塔(遍照坊智専と佐渡明和一揆)

憲盛法印大供養塔
明和一揆で犠牲となった僧侶の巨大な供養塔

2023年5月17日義民の史跡

明和4年(1767)、風雨と虫害のため不作となった佐渡国(今の新潟県佐渡市)では、佐渡代官所の苛政に反発した農民らが一揆を企てたものの未遂に終わりました。この「佐渡明和一揆」では、年貢の延納などの要求が認められたものの、願書をしたためた遍照坊智専が頭取として死罪となり、佐渡各地に供養塔が建てられました。

義民伝承の内容と背景

明和4年(1767)、風雨と虫害のため不作となった佐渡島では、国仲平野53か村の名主らが年貢減免を愁訴しますが、代官所の御蔵奉行・谷田又四郎は減免をいっさい認めず、品質の良くない米を突き返したり、俵を開封して米を地面に撒き散らすなどして厳しい取立てを行いました。

この時期、従来から存在する佐渡奉行所は一国全体の事務を取り扱い、農村支配は別に派遣された幕府役人が代官所を立てて行う二重行政の仕組みがあり、現地の実情に精通し穏健路線の奉行所とは対照的な代官所のやり方が大きな不信を招いていました。

やがて、国中の百姓が八幡村に集合し、相川の代官所を打ちこわして奉行所支配に戻すよう強訴することを唆し、従わない村を焼き討ちするとの趣旨が書かれた出所不明の廻状が村々に送られます。

このときには相川の町に蓑笠を着けた百姓らが連れ立ってうろつく姿が見られ、四町目弾誓寺の境内で寄合が開かれたりもしましたが、一揆は不発で何事もなく過ぎ去り、事前に情報を察知していた奉行所でも、百姓を説得して帰村させるとともに、品質にかかわらず年貢米をすべて受け取る態度を見せています。

しかし、その後またしても三宮村の三宮大明神の鰐口の綱から、栗野江村の加茂大明神に集合して年貢減免につき合議を促す匿名の文書が発見され、今度は加茂大明神に村々の代表者が集合しました。

ここでは惣代として後山村助左衛門らが選出され、訴願の趣旨を長谷村の僧侶・遍照坊智専が清書しましたが、一揆決行前に全員が役人に捕縛されることとなりました。

この「佐渡明和一揆」では年貢の延納が認められたり、代官所が廃止され奉行所支配に戻されるなど、目的の一端を果たすことはできましたが、明和7年(1770)3月21日に遍照坊智専のみが責任を一身に負って斬首されました。

遍照坊処刑の翌年、佐渡島では稲の害虫ウンカが大量発生したため、人々はこれを遍照坊の怨霊が化した「遍照坊虫」と呼び、「憲盛法印」と諡して島内各地に「憲盛法印供養塔」を建てました。

時が移って大正8年(1919)の百五十回忌には、高さ4メートルの巨大な「憲盛法印大供養塔」が旧遍照院敷地に建てられたほか、昭和12年(1937)には島内の他の一揆指導者とともに栗野江の「佐渡一国義民殿」にも義民として祀られました。

参考文献

『両津市誌』上巻(両津市誌編さん委員会編 両津市、1987年)
『天領佐渡』(2)村の江戸時代史(下)(田中圭一 刀水書房、1985年)

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憲盛法印大供養塔の場所(地図)と交通アクセス

名称

憲盛法印大供養塔

場所

新潟県佐渡市長谷地内

備考

両津港から車で30分。「長谷」バス停を降りて急カーブの県道の坂道を登った先の墓地内にある。

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関連する他の史跡の写真

❶憲盛法印供養塔
❷佐渡一国義民殿

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)