明和義人顕彰之碑(涌井藤四郎と新潟明和騒動)
明和5年(1768)、越後国新潟町(今の新潟県新潟市)で長岡藩が賦課した御用金に反対する大規模な打ちこわしが発生し、これを契機に町中惣代の湧井藤四郎らを中心とする住民自治が生まれました。この「新潟明和騒動」では最終的に藤四郎らが獄門となるものの、義民として後々まで語り継がれ、各地に供養塔や顕彰碑が建てられました。
義民伝承の内容と背景
明和4年(1767)、財政に行き詰まった長岡藩では、新潟町に対して1,500両もの御用金を賦課しました。新潟町でもすぐには御用金を完納できないため、まずは半分を納付し、残りは利息とともに翌年に納入することで藩の合意を取り付けました。
翌明和5年(1768)、米価高騰のあおりで完済が難しくなった新潟町では、9月13日、反物屋の涌井藤四郎はじめ3、40人ほどの町人らが西祐寺で話し合い、新潟町奉行に御用金延納の嘆願をすることに決めました。ところがこの集会を米商人の八木屋市兵衛が「徒党」として密告したことから、涌井が入牢する事態へと発展します。
これを機に町内は不穏となり、9月26日夜、鳶口などを手にした多数の町民が本明寺の早鐘を合図に日和山へと集まりました。謎の黒装束の男数名に率いられた民衆は、密告者の八木屋市兵衛の居宅を皮切りに、翌27日まで米商人や町役人宅などを打ちこわして回り、後に「新潟明和騒動」と呼ばれます。
新潟町奉行の石垣忠兵衛は市街地に陣を張り、鉄砲で応戦したものの敗退したため、やむなく涌井を釈放し、その涌井の説得によって町内は再び平穏を取り戻しました。
9月29日には町民代表が勝念寺に集まって連判状を交わし、以後は涌井を新潟町惣代とする自治が行われるようになりました。具体的には、米・酒・豆腐といった生活必需品の価格引下げ、質屋の貸付けにおける利息制限、買いだめ・転売防止を目的とした米手形の発行などの取組みが見られました。
一方で町奉行からの注進を受けた長岡藩でも、新潟町に藩兵を派遣して鎮圧しようとしますが、涌井の指示なしには船からの荷降ろし作業さえ人足から拒否されるありさまでどうすることもできず、光林寺などにしばらく滞在した後で長岡に帰ってしまいます。
10月には大番頭奉行の今泉岡右衛門と元締吟味頭の飯田久兵衛が新潟に派遣され、町民の代表者を本覚寺に呼び出し、打ちこわされた建物の修繕などを命じた上、仮の町役人を任命して秩序の回復に当たろうとするもののうまく機能せず、町民に飢手当米を施して両名が長岡に帰ると、ほとんど藩公認での自治となります。
この2か月にわたる新潟町の自治は、11月に涌井らが長岡出頭を命じられて投獄されるに及んで終止符が打たれ、以後は新しく任命された町奉行や町役人の下で藩主導による統治が復活しました。
長岡から護送された涌井藤四郎と須藤(岩船屋)佐次兵衛の両人は、明和7年(1770)8月25日、新潟町内を引回しの上、鍛冶小路の牢屋敷において打首となり、その首は題目庵(今の題目寺)の辺りで獄門に懸けられました。
しかし、涌井らへの思慕は亡くなった後も絶えず、今は新潟大学医学部のある南山に藩を憚り「信濃川筋溺死者之霊魂」と刻んだ供養塔が建てられたのは寛政9年(1797)のことです。また、『江戸繁昌記』で知られる儒学者の寺門静軒は、安政6年(1859)の『新潟富史』の中で「世下総に荘五郎有るを知りて越にも亦た荘五郎有るを知らず」として、下総の義民・木内惣五郎になぞらえて涌井の事績を詳しく紹介しています。
近代に入ると、自由民権運動を追い風に「明和義人」として盛んに顕彰されるようになり、明治17年(1884)、古町通の愛宕神社境内に木内惣五郎の分霊を勧請する名目で「口之神社」を創建して明和義人を合祀したほか、明治21年(1888)には新潟明和騒動を描いた芝居の収益金をもとに長照寺境内に「涌井藤四郎・須藤佐次兵衛墓」が建立されました。市街地の白山公園内にも昭和3年(1928)に巨大な「明和義人顕彰之碑」が建てられています。
参考文献
『新潟県史』通史編4 近世2(新潟県編 新潟県、1988年)
『新潟市史』通史編2 近世(下)(新潟市史編さん近代史部会編 新潟市、1997年)
明和義人顕彰之碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
明和義人顕彰之碑
場所
新潟市中央区一番堀通町地内
備考
北陸自動車道「新潟西インターチェンジ」から車で15分。白山公園内の新潟県政記念館に隣接する東堀口近くに建てられている。