安藤神社
伊予国(今の愛知県)宇和島藩の支藩・吉田藩では、寛政5年(1793)、紙専売制強化に反対する1万人規模の「武左衛門一揆」が勃発しました。吉田藩家老・安藤儀太夫(安藤継明)は一揆勢と交渉しようとするものの成功せず、家老の中でただ一人、失政の責任を負って百姓の面前で切腹し、後に安藤神社の祭神として祀られました。
伝承の内容と背景
伊予国宇和島藩の支藩である吉田藩では、財政の逼迫に対抗するため、山奥筋の農民の副業となっていた紙の専売制を推し進め、特に専売品を一手に引き受けていた特権商人・法花津屋への反感が高まっていました。
このような中、山奥筋に「徒党」の風聞があったことから、吉田藩は事態を穏便に解決しようと現地に役人を派遣し、農民側から17か条に及ぶ願書を提出させました。
寛政5年(1793)正月、吉田藩は願書の内容につき重臣らに評議させましたが、家老の安藤儀太夫が民力休養を説くものの他の賛同を得られず、結論は「願の筋相立たず、万事従前の通り」となってしまいました。
ここに至って同年2月、奥山筋の宇和郡上大野村(今の北宇和郡鬼北町)百姓・武左衛門らを頭取とする「武左衛門一揆」(「吉田騒動」「吉田藩紙一揆」とも)が勃発し、約1万人が宇和島城下の八幡河原へと迫りました。
2月14日、安藤儀太夫は八幡河原に自ら出向いて名乗りを上げ、百姓との交渉に臨みましたが、『伊達秘録』によれば「吉田の狸役人ニ用事ハなし戻れやかへせ」と口々に罵倒されて交渉の余地がないことを悟った安藤は、「国政行届ざる騒動ハ職分の罪」としてすべての責任を負い、河原の土手を下りて挟箱に腰を掛け、宇和島・吉田両藩家老宛ての遺書をしたためると、その場で切腹して果てたといいます。
『伊達秘録』は「心しづかに肩衣を別、直にもろはだをぬぎ左のはらへ突込れ(中略)介錯/\と二声有けれハ、畏りしと千右衛門指出されし刀おつ取ふりあげしと見る間もなく首は前にとあへなき御さひご」と、安藤儀太夫の切腹と若衆・千右衛門による介錯の様子を伝えています。
もっとも、吉田藩中見役の鈴木作之進が密かに記した『庫外禁止録』によれば、安藤儀太夫は白装束や首桶を事前に用意して覚悟の交渉に臨んだことは間違いないものの、切腹後も介錯を受けず生存しており、急遽呼び出された医師も上役の許可がないとして治療をためらうなど、異例の事態を前に現場は混乱を極めていたことがうかがえます。
ともあれ、この安藤儀太夫の切腹による死を契機として事態は急速に進み、翌2月15日には百姓側から吉田藩に願書が提出され、2月16日までに八幡河原の百姓は現地を撤収して帰村、2月26日には宇和島藩の立会いのもと、紙方役所の廃止を含め、百姓側の要求をほぼ認める回答が吉田藩から申し渡されました。
出生も死亡も不思議と2月14日だったという安藤儀太夫の遺骸は海蔵寺に埋葬されましたが、嘉永6年(1853)2月14日には海蔵寺の上空が光り輝く奇跡が起き、遠方からも特に病気平癒のご利益を求めて参詣者が多く訪れ流行神化したことから、翌嘉永7年(1854)、境内に「安藤継明廟所」が営まれました。
明治6年(1873)には安藤儀太夫の屋敷跡に神祭形式で「継明神社」が創建され、明治10年(1877)に「安藤神社」と改称されて現在に至っています。
参考文献
『日本農民史料聚粋』第4巻(小野武夫編 巌松堂書店、1941年)
『庫外禁止録』(鈴木作之進著、上田吉春・松浦洋一編 日吉村教育委員会、1995年)
安藤神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
安藤神社
場所
宇和島市吉田町東小路甲131
備考
「安藤神社」は、JR伊予吉田駅から北に徒歩10分、松山自動車道「宇和島北インターチェンジ」から車で10分の場所にあります。