義民宮内之碑(宮内清兵衛の義民伝承)

義民宮内之碑 義民の史跡
減租を求め簀巻きにされたという義民の碑
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天保7年(1836)、飢饉の中にあった丹波国桑田郡上久保村(今の京都府南丹市)の宮内清兵衛は、減租を求めて園部陣屋に直訴したものの、簀巻すまきにされて川に捨てられ亡くなったといいます。昭和に入ると、地元の人々は「義民宮内之碑」を建立して宮内の恩徳に感謝しました。

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義民伝承の内容と背景

天保年間、園部藩領の丹波国桑田郡上久保村では飢饉が起こり、餓死する者が相次いだといわれます。『美山仏教史』によれば、上久保村光瑞寺の過去帳に掲げる天保年間の死亡者数の年平均は約15人であるところ、天保6年(1835)には死亡者36人という異常値を記録しています。

この惨状を見かねた上久保村の宮内清兵衛は、天保7年(1836)、陣屋のあった園部まで出向いて、年貢を五ツ免から二ツ免、すなわち年貢率を5割から2割に引き下げるよう直訴を行いました。(なお、『近畿民俗』に掲げる「丹波美山口碑集」は当初の年貢率を「免七ツ」としています。)

役人に捕らわれた清兵衛は、簀巻すまきにされて園部川に投げ捨てられましたが、このとき清兵衛は竹簀の中から指を2本だけ突き出したまま流されていったといいます。

死してなお年貢二ツ免を求めた清兵衛の話は藩主の耳にも入り、以後の上久保村の年貢は二ツ免にまで減額され、村人たちは飢餓から救われたということです。

『ふるさと美山の生活誌』では、子孫・縁故者や檀那寺である光瑞寺の過去帳を調べた上で、直訴をしたのは宮内喜右衛門家の分家に当たる宮内清兵衛家を継いだ清吉という人物であり、今日では「くない」と称されているものの、家名の読みは「みやうち」が正しいとしています。

昭和4年(1929)、地元の人々は一身をなげうって村民を救った清兵衛に感謝するため、由良川の川底から掘り起こした高さ1.5メートルほどの川石に「義民宮内之碑」と刻み、10月10日を祭日として毎年供養するようになりました。

参考文献

丹波風物誌』(湯浅貞夫 文理閣、1982年)pp.84-85
『美山仏教誌』(阜一秀編 阜一秀、1981年)pp.196-198
『ふるさと美山の生活誌』(阜一秀編 阜一秀、1983年)pp.264-269
京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社編 京都新聞社、1977年)p.81-82
『近畿民俗』第110号(近畿民俗学会編 近畿民俗学会、1987年)p.18

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義民宮内之碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

義民宮内之碑

場所

京都府南丹市美山町内久保

備考

「義民宮内之碑」は、京都府道38号京都広河原美山線が由良川を越える付近にある「水車しあわせ広場」の裏手に位置しています。マイカーでアクセスする場合、京都縦貫自動車道「園部インターチェンジ」からおよそ40分です。公共交通機関を利用する場合、JR山陰本線「日吉駅」から南丹市コミュニティバス(美山園部線)乗車50分、「内久保」バス停下車、徒歩1分です。

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