江戸時代前期、園部藩領の丹波国船井郡仏主村では、重税に苦しむ人々のため、藤田猪兵衛・おこん夫妻がそれぞれ直訴に及び、入牢させられたといわれています。この義民伝承をもとに、戦後「和知浄瑠璃」の演目のひとつが創作されたほか、夫妻を顕彰する「延宝義民顕彰碑」も建てられました。
義民伝承の内容と背景
『丹波誌』によれば、夫が罪に問われるのを恐れた同村の藤田猪兵衛(伊兵衛)妻・おこん(をこん)は、幕府の巡国使が近くを通行する噂を聞き付けると、夜中に子供を背負って役人の旅宿へ直訴に及び、重税を解消することに成功しました。
ところが、長老ヶ岳の険しい峠道を越え喜び勇んで家に帰ったころには、既に背中の子供は息絶えており、おこんも園部藩から入牢を仰せ付けられ、後に恩赦を受けるまで獄中にあったということです。
この義民伝承は脚色が強く、『和知町史』は「この事件を史実として究明するのはきわめて困難なものがある」としていますが、一方で猪兵衛やおこんが実在し、園部藩の重税に反対して直訴を企てたことを示すいくつかの資料があります。
『園部町史』所載の『略史前録草案』によれば、藤田猪兵衛は寛文6年(1666)、園部藩が検地帳に基づく年貢のほかにも高率の税や夫役を課しているとして京都所司代に越訴し、園部藩士・宇野儀兵衛との対決に及んだことが知られます。
訴状によれば、園部藩は「小物成」として、桑役銀・茶役銀・うるし(漆)役銀・山役増銀・同腰林之役銀・松たけ(松茸)役銀・入木之代銀・入わら(藁)代銀・あみ(網)役銀・餅米之損銀・まめ板しぶ銀・せんは(千把)役銀・鉄砲役銀・白すみかま(炭竈)役銀・黒すみかま(炭竈)役銀・木地屋まどい銀・くわ(桑)役之増銀・大工之役銀・栗役銀・しぶ(渋)役銀・黒木之役銀・うるか(鮞)の役銀・川役之銀・いかた(筏)の切手役銀といった、実に24種類にも及ぶ雑税を課していました。
また、訴状は「丹波舟井郡 小出伊勢守様御知行所 惣百姓中」の名で提出され、園部藩の重税により「御知行所之百姓中不残困窮仕候」と記されており、仏主村以外にも多くの村々の賛同を得て猪兵衛が頭取を務めたことがうかがえます。
この訴訟は藤田猪兵衛の敗訴となり、「重々不届者」として死罪になるべきところ、藩主の「思召」により「牢下し」(永牢)となったほか、妻・おこんも在所である仏主村に預けられましたが、寛文8年(1668)には園部藩が5月に10か条、9月に7か条の「御赦免」を発し、念願である大幅な減税が認められました。
さらに、『丹波誌』には園部藩の郡奉行・代官に宛てて「重而悪事仕候ハじ」と直訴を二度としない旨を誓約した延宝4年(1676)の藤田おこん・倅万太郎連名による文書も掲げられています。
この文書には「私義猪兵衛之妻子にて御座候へ共在所ニ為置候処に御国廻り御奉行様へむざと仕候間目安指上申ニ付籠舎被仰付候」とあり、猪兵衛の一件で仏主村預かりとなっていた藤田おこんが、その後「御国廻り御奉行」に目安(訴状)を提出し、みずからも入牢させられていたことがわかります。
旧仏主村の共同墓地には、延宝3年(1675)に牢死した藤田猪兵衛と、入牢後に恩赦を受けて帰村し、元禄11年(1698)まで天寿を全うした藤田おこん夫妻の戒名が刻まれた自然石の墓碑が建てられ、現在は藤田家墓地に移されています。
この藤田猪兵衛・おこんの義民伝承は、地元に伝わる「和知人形浄瑠璃」を戦後に復興させた安積治郎により「長老越節義誉」としてまとめられたほか、令和4年(2022)には仏主区により国定公園水車前広場に「延宝義民顕彰碑」も建てられました。
参考文献
『和知町史』第1巻(和知町誌編さん委員会編 和知町、1995年)pp.341-369
『園部町史』史料編第2巻(園部町教育委員会園部町史編纂室編 園部町役場、1981年)pp.206-219,229-230
延宝義民顕彰碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
延宝義民顕彰碑
場所
京都府船井郡京丹波町仏主
備考
「延宝義民顕彰碑」は、府道51号舞鶴和知線沿いの農家民宿「長老の里」向かいの水車前広場にあります。「長老の里」から上和知川の橋を渡るとすぐ、公衆トイレ棟と水車小屋があり、その前面の広場奥に解説板とともにこの碑が建てられています。マイカーでアクセスする場合、京都縦貫自動車道「京丹波わちインターチェンジ」から国道27号を東上し、「市場」交差点で府道51号線に入っておよそ25分です。公共交通機関を利用する場合、JR山陰本線「和知駅」から京丹波町営バス(仏主線)乗車25分、終点「仏主」バス停下車、徒歩1分です。
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