義民宗次郎の碑(畝傍村宗次郎と旗本神保氏領強訴)

義民宗次郎の碑 義民の史跡
強訴の頭取として亡くなった百姓の徳を偲ぶ石碑
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明和5年(1768)、大和国(今の奈良県)では凶作をきっかけに旗本・神保氏領内の9か村、千人あまりの百姓が池尻陣屋へ強訴に及び、不納銀の取立て免除などの要求を代官に認めさせました。その後の厳しい吟味により、頭取の大谷村庄屋半兵衛、畝傍村宗次郎(いずれも今の橿原市)が死罪となったことから、明治時代に入ると地元の神社境内に「義民宗次郎の碑」が建てられました。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代の明和年間(1764~)のはじめ、大和国高市郡畝傍村は旗本・神保氏の知行所でしたが、藩士・嶋田半助の養子となった新参者の地方巧者・嶋田忠左衛門(忠右衛門とも)が大目付まで昇進し、子息ともども権勢を振るっていました。

嶋田忠左衛門は明和元年・2年と続いた大風による凶作の際、江戸表に被害を過少申告したため、年貢の減免が受けられずに潰れ百姓が相次いだということで、村々の惣代が江戸に出府して嘆願を行った末に、ようやく御役召上げになったという経緯があります。

『旗本神保氏領記録』には、この嶋田忠左衛門の政治について、「下𛀁いたわり之心なく」「無慈悲之偽り」「古例も無之非道之義」「百姓ヲ取沽シ自分之私欲ニ金銀ヲ過分ニ貯置」などの非難の言葉が並んでいます。

明和5年(1768)にも領内は大風による大凶作に見舞われましたが、同年11月29日夜、今の橿原市・高市郡明日香村の区域に当たる大谷・慈明寺・吉田・妙法寺・寺田・大久保・畝傍・土橋・川原の9か村(又は15か村とも)の百姓千人余りが飛鳥川の今井尊坊(そんぼ)川原にかがり火を焚いて集まり(又は深田池堤に集まったとも)、神保氏の池尻陣屋へ強訴に及びました。

『堀内長玄覚書』によれば、一揆勢は不納銀取立ての免除や定免法の実施を要求し、陣屋から鉄砲を打ちかけられてもひるまなかったため、代官・猪股三太兵衛が要求を認める墨付を渡し、「百性(姓)願之通り聞届ケ無相違急度此いのまたが請合、刀にかけて江戸表願つめ命かきりに申上ケ、惣百姓相続の儀ニ候ヘハ右願之趣堅ク請合候」と命がけで説得してようやく引き上げたということです。

ただし、もし要求が聞き届けられない場合には、「大庄屋衆三人と御代官衆と百性方へもらい候て、右之通の百性為勤メ見たく候事」と、大庄屋や代官らの身柄を引き受けて百姓仕事でもさせてみたいと口々に恨みごとを言っていたとも書かれています。

この猪股三太兵衛は心労がたたったのか急病で亡くなってしまい、翌年5月からは知らせを受けて江戸からやってきた御用人の志波弥次兵衛・桑原五郎左衛門らによる吟味が始まり、村々では手錠をかけられたり入牢したりする者が現れました。その結果、大谷村庄屋半兵衛、畝傍村宗次郎(惣治郎)の2人が頭取として死罪を仰せ付けられ、参加した村々にも村高100石につき過料銭として2貫文が科せられました。

明和7年(1770)5月4日暮れ六つ時、半兵衛・宗次郎の2人の頭取は、家老・楢原次郎左衛門立会いのもと、太刀取の洞村喜兵衛の手によって、池尻村牢屋敷において打首となりました。『堀内長玄覚書』には「仍而セいばい場所土段々ニ直り候節、此両人代々御旨門ニ而其節正信げ(偈)と白こつ(骨)の御文章様といたゞき、念仏もろ共ニ両人首打れ、其時あり逢ふ人々儀と共に念仏ばかりニさて/\いたハしく、ふびん之ありさま、申はかりもなき候由の事ニ候なり」と、人々が共に念仏を唱えて2人の死を悼んだようすが記されています。

この後、領内では安永元年(1772)に定免法が導入されましたが、「元来御取箇強キ御領下」、すなわち領内では年貢率がもともと高かったがゆえに大した負担軽減にはならなかったらしく、天明元年(1781)に再び一揆寸前の事態に至っています。

江戸時代が終わり明治43年(1910)になると、義民の事績が再び日の目を浴びるようになり、東大谷日女命神社の境内に「鳴呼義民宗次郎霊」と彫られた顕彰碑が建てられました。『橿原市史』によれば、当時、命日には町民が集って徳を偲ぶ催しが行われていたということです。

参考文献

『橿原市史』(橿原市史編集委員会編 橿原市、1962年)p.743
『橿原市史』史料 第3巻(改訂橿原市史編纂委員会編 橿原市、1986年)pp.756-759
『今井町周辺地域近世初期史料』(森本育寛編 森本順子、1986年)pp.275-282
『橿原市史』本編 上巻(改訂橿原市史編纂委員会編 橿原市、1987年)pp.255-256
『大和国庶民記録-堀内長玄覚書・井上次兵衛覚書-』(平井良朋編 清文堂出版、1993年)pp.130-131、p.161
『近世民衆運動の展開』(谷山正道 高科書店、1994年)pp.159-180

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義民宗次郎の碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

義民宗次郎の碑

場所

奈良県橿原市畝傍町

備考

「義民宗次郎の碑」は、橿原神宮の北参道を社殿に向かって150メートルほど進み、途中で脇道に折れてさらに北西に100メートル以上進んだあたり、「東大谷日女命神社」の鳥居右脇にあります。手前に「人権に関わるスポットをたずねて」と題する案内板があり、一揆の概要や建碑の経緯がわかります。近鉄橿原線「畝傍御陵前駅」から徒歩10分、京奈和自動車道「橿原高田インターチェンジ」から車で10分ほどです。

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