若杉霊神(若杉春后と諫早騒動)

若杉霊神 義民の史跡
諫早騒動で極刑に処された儒者を祀る石祠
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寛延3年(1750)、佐賀藩の御家騒動に端を発し、諫早領1万石の減知反対を求める「諫早騒動」が起こります。この一揆には武士・町民・農民までが参加し、1万人以上が佐嘉城下へ強訴しようとしたほか、大坂町奉行所への箱訴などを行いました。最終的に一揆は鎮圧され、儒者の若杉春后ら多数が極刑に処せられましたが、後に若杉春后を祀る「若杉霊神」の石祠や顕彰碑が建てられています。

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義民伝承の内容と背景

九州北部に覇を唱えた戦国大名・龍造寺隆信は、「沖田畷おきたなわての戦い」で島津家久の奇襲を受けて敗死し、その後は太閤秀吉の命により、隆信の義弟である鍋島直茂が国政を担うようになりました。江戸時代に入り、龍造寺高房が自害して龍造寺宗家が断絶すると、遺領35万7千石を鍋島直茂の嫡男・勝茂が継承し、名実ともに鍋島家支配による佐賀藩が成立します。

こうした特殊な経緯から、佐賀藩内には鍋島勝茂の子や弟が立てた蓮池はすのいけ小城おぎ・鹿島の「三家」(支藩)、白石・久保田・川久保・村田の「親類」のほか、「親類同格」として多久・諫早いさはや・武雄・須古の「龍造寺四家」があり、それぞれ広大な知行地を得ていました。

寛延元年(1748)、支藩の蓮池藩主・鍋島直恒なおつねが中心となり、専制的な佐賀藩主・鍋島宗教むねのりを隠居させ、後継に弟の鍋島主膳(直鄰なおさと)を擁立しようとする御家騒動が起こります。

この企ては失敗し、寛延2年(1749)に蓮池藩主・鍋島直恒は佐賀本藩の命により江戸藩邸で謹慎となり、同年中に急死しますが、それ以上の処分はありませんでした。ところが、蓮池藩主に同調した「龍造寺四家」の一つである諫早領主・諫早茂行に対しては、12月に入ってから蟄居・隠居と知行1万石の没収という厳しい処分が言い渡されました。

諫早家中では家老・三村惣左衛門が佐賀本藩の処分に猛反対したほか、早くも寛延3年(1750)正月には、15石取り以下の下級武士たちが連判状を作成して家老・諫早五郎太夫に提出したり、年貢負担の増加や隠田摘発を恐れた百姓らが諫早役所に大挙して押しかけるなど、武士だけではなく町人や農民までをも巻き込んだ、減知反対を掲げる大掛かりな「諫早騒動」へと発展しています。

3月に入ると、諫早役所に願い出ても進展のないことを知った百姓らは、諫早家の足軽で儒者として声望が高かった若杉春后の起案した訴状を携え、幕府の長崎奉行所に越訴しようとしました。訴状では初代当主・龍造寺家晴以来の諫早家の成り立ちを説明するとともに、「凶年之節石見ヨリ、飢候者ニ米穀をとらせ、寒ヘ候者ニハ衣装を着せ、ねんごろニ飢寒を救候故、百姓共つつがなく妻子共ニ命をつなぎ来り候」として、享保の飢饉の際に領主(諫早石見守茂行)の救恤を受けるなど「先祖ヨリ之厚恩」があることを引き合いに、減知には「領分之百姓決シテ承引つかまつらず」としています。

長崎奉行所への越訴は、長崎まで追い掛けてきた諫早役人によって惣代の百姓全員が連れ戻されたため不首尾に終わりましたが、佐賀本藩にも通報され大事となったため、4月には新領主・諫早行孝が家中に宛てて、騒ぎ立てるのは「自滅之基」であるから「願事等相止」めるよう訓示を出しました。

しかし、その後も5月に「諫早三郡之惣代」を名乗る百姓らが幕府の日田代官所へ越訴に及び、管轄外であることを理由に不受理とされ、訴状を突き返される事件が起きています。代官・岡田庄太夫はさっそく佐賀藩家老宛てに書状を出し、訴状の写し添えて彼杵郡喜々津村(今の長崎県諫早市)百姓土平ら4人(ただしいずれも偽名)が頭取であることを伝えるとともに、「当春中強訴・徒党・逃散之義ニ付、重被 仰付義有之候」と、幕府から強訴徒党の禁令が出ていることを付言して注意を促しました。なお、この岡田庄太夫は全国の代官を歴任する中で、享保14年(1729)に佐藤太郎右衛門を頭取とする「享保信達一揆」、延享3年(1746)に穴井六郎右衛門を頭取とする「馬原騒動」を引き起こしています。

佐賀本藩では諫早領主を佐嘉(今の佐賀県佐賀市)に呼んで4人の捕縛を命じましたが、反発した惣百姓1万3、4千人が5月末日に諫早領境の多良(今の佐賀県藤津郡太良町)へ集結、6月1日に佐嘉に向けて進発しました。途中で諫早家老の三村惣左衛門が「御家ノ御為に相不成」としてこれを押し留め、4人の探索はしない旨の書付を渡したため、3日にはそれぞれの村に引き上げています。

白石鍋島家の3代当主で、このころ既に隠居していた鍋島徹龍(直愈なおます)は、事態を打開すべく、日田代官所に越訴した4人を捕縛しないこと、上地1万石は3年後に返還することを趣旨とする仲裁案を百姓方に提示しました。

百姓方が回答を引き延ばしているうちに、7月に大坂町奉行所の目安箱に諫早百姓が箱訴をしたとの知らせが佐賀藩に届きました。ただし、訴状には「高来郡百姓共」「諫早領百姓共」などとあるのみで、誰が訴人なのか特定できないので、訴人を大坂まで連れてくるようにとのことでした。

しかし、8月に入ると、佐賀本藩は領主・諫早行孝に諫早下向と農民鎮撫を命じ、「親類同格」の多久長門(茂堯しげたか)も千人ほどの手勢を率いて諫早領に向かいました。同時期に大坂町奉行所から訴人召喚の指示が撤回され、藩法に従い処分してよいとの許しを得たこともあって、これ以降、佐賀本藩は反対派に苛烈な態度で臨むようになります。

こうして若杉春后ら関係者が捕縛され、9月には上地受渡しもはじまり、一揆は沈静化しましたが、長崎・日田の直訴と大坂の箱訴に関与した喜々津村土左衛門が磔となったのをはじめ、(町人を含め)百姓のうち5人が磔・8人が獄門、7人が生害という極刑に処せられました。

また、領主・諫早行孝の蟄居のみならず、武士身分でも諫早五郎太夫・諫早五左衛門・早田官右衛門の3人が切腹、三村惣左衛門が生害・獄門、若杉春后が磔となるなど、一連の「諫早騒動」で減知反対派は大きな犠牲を払う結果となりました。

若杉春后は寛延3年(1750)10月26日、嘉瀬刑場で処刑されましたが、それから17年後の明和4年(1767)、諫早11代領主・茂図しげつぐのときに1万石が佐賀本藩から返還されたため、領主は若杉春后の恩徳に感謝し、正林稲荷境内に「若杉霊神」として祀りました。

「若杉霊神」の石祠は、明治15年(1882)の高城神社創建に伴い同社境内に移されますが、昭和15年(1940)には北高来郡教育会により「若杉先生表義碑」が紀元二千六百年記念行事の一環として石祠の隣に建てられ、さらに若杉春后の墓がある天祐寺にも、同16年(1941)に「諫早義挙殉難者之霊碑」が建てられています。

そのほか、諫早に出兵した多久長門も、寛延4年(1751)、多久領内の妙覚寺に法華経百部を読誦の上で「諫早墳」という塚を築き、犠牲者の氏名を刻した供養碑を立ててその霊を慰めました。

参考文献

『諫早義挙録』(古賀篤介 北高来郡教育会、1940年)
『諫早市史』第4巻(諫早市史編纂室編 諫早市、1962年)
『幕藩制下の政治と社会』(丸山雍成編 文献出版、1983年)

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若杉霊神の場所(地図)と交通アクセス

名称

若杉霊神

場所

長崎県諫早市高城町1

備考

「若杉霊神」は、諫早市高城町鎮座の高城神社の拝殿左脇にある石祠で、手前に「若杉霊神」と題する案内板が建てられています。その横の石碑が「若杉先生表義碑」です。マイカーでアクセスする場合、長崎自動車道「諫早インターチェンジ」から10分ほどで、拝殿下の境内が広い駐車場になっています。公共交通機関を用いる場合は、JR西九州新幹線・長崎本線・大村線・島原鉄道島原鉄道線「諫早駅」から長崎県営バス(東厚生町又は早見行き)乗車5分、「諫早公園前」バス停下車、徒歩3分です。

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