殉義蘇民の碑(広瀬屋清七郎と天明大原騒動)
飛騨郡代・大原亀五郎は、「一条金」6千両余りを村々から借り入れたり、年貢の過納金を返還せず献納を強制したりしたため、飛騨国益田郡跡津村(今の岐阜県下呂市)出身で高山陣屋の取次役だった広瀬屋清七郎らは、郡代の不正を老中・松平定信や幕府巡検使に直訴し、寛政元年(1789)、郡代を流罪に追い込みました。この「天明騒動」では広瀬屋清七郎も死罪に処せられていますが、人々は彼を国吉大明神として祀り、各地に供養塔を建てました。
義民伝承の内容と背景
翌年の安永3年(1774)暮れまでには、大野郡宮村百姓太七、無数河村名主長治郎、一宮(飛騨一宮水無神社)神主山下和泉及び森伊勢のあわせて4人が磔、新宮村百姓藤十郎ら2人が死罪、吉城郡本郷村(以上いずれも今の高山市)百姓善左衛門倅善九郎ら10人が獄門(うち3人は牢死)となったほか、過料まで含めると1万人近くが処罰され、一揆は目的を達せぬままに終わりました。
安永4年(1775)、検地により1万石を打ち出した功績で代官の大原彦四郎は布衣郡代に昇進しましたが、私生活の上では凶事が重なり、妻は郡代を諌めて自殺、長男・勝次郎は刃傷沙汰の末に死亡、自身は眼病を患い失明しています。桜山八幡宮、陣屋稲荷神社や飛驒一宮水無神社の境内には、神仏の加護を得ようと大原彦四郎が奉納した灯籠が今に残ります。
その彦四郎は安永8年(1779)9月に謎の熱病で亡くなりますが、一揆への関与で牢死した大野郡大沼村(今の高山市)久左衛門の養子・忠次郎(渡辺正定)が著したとみられる『夢物語』には、「郡中の者の一念こるゆゑ、眼前に苦痛悩乱の病気発し、逝去いたされける」とあり、百姓の深い恨みの念が郡代を死に追いやったと考えられていたことがわかります。
大原彦四郎の死を受けて、天明元年(1781)7月、次の飛騨郡代に任じられたのは、18歳になる彦四郎の次男・大原亀五郎正純でした。『夢物語』は「江戸表は田沼主殿頭殿出頭の時節にて、金銀賄贈をもって首尾は都合よく調ひけれども、御郡代御勝手自然と不如意に相成り」として、亀五郎が老中・田沼意次に賄賂を贈って郡代の地位を得たことを、陣屋財政が逼迫した理由に掲げています。
加えて天明3年(1783)の浅間山噴火をはじめとする気候変動から「天明の大飢饉」が日本全国を襲い、天明4年(1784)には大野郡高山町(今の高山市)の大火で市街地のほとんどを焼失するなど、賄賂以外にも財政上の課題が山積していたことは事実です。
そこで郡代・大原亀五郎は、「一条金」と称して郡中・町方から6,128両を10年賦の約定で借り入れたり、年貢の過納金を百姓に割り戻さず名主を通じて献納させたりしたほか、御用木の伐採で使役した山方への元伐賃2,500両あまりを不払いにして難局を打開しようとしました。
これに対して吉城郡大村万助、上北村(いずれも今の飛騨市)伊右衛門らの村役人は、天明7年(1787)12月に高山町にあった前の取次役・広瀬屋清七郎宅で寄合を開き、江戸に出て郡代の悪政を幕府に訴えることに決めました。
江戸には12月に大村万助、翌天明8年(1788)3月に上北村伊右衛門が派遣され、機会を待って7月上旬から数度、老中・松平定信の屋敷に「不正之取斗故弥増困窮仕候」と張訴を行い、12月に高山陣屋の元締・田中要助が事情聴取のため江戸の勘定奉行所に召喚されています。
広瀬屋清七郎はもと跡津村の森文右衛門の次男で、高山町の広瀬屋半平のもとに養子に出され、高山陣屋の取次役を務めました。「取次役」は廃止された大庄屋に代わり、村々からの願い出を陣屋に取り次いだり、紛争の仲介をしたりする役職です。広瀬屋清七郎は、高山陣屋の元締・古川卯八に味方して郡代と対立し、寄合前に取次役を辞めさせられており、その後一時は復職したものの、大村万助らの一味であることが露見して、寛政元年(1789)6月に入牢させられています。
寛政元年5月、大沼村忠次郎は幕府巡見使の比留間助左衛門らに能登国羽咋郡白瀬村(今の石川県羽咋市)で、さらに巡見使の飛騨通行時に大野郡大萱村六兵衛宅で再び百姓の窮状を訴え、閏6月には江戸に出た片野村甚蔵と松本村(いずれも今の高山市)長三郎が老中・松平定信に対して駕籠訴に及びました。
その甲斐あって、6月以降、広瀬屋清七郎ら関係者が続々と江戸の勘定奉行所に召し出されて取調べが行われ、12月には評定所の裁決があり、郡代・大原亀五郎と支配勘定役・土井与右衛門が八丈島に遠島、元締手代の田中要助と志茂六郎次が打首、その他多くの役人が追放・解職・過料などに処せられています。
一方の百姓側では、広瀬屋清七郎が取次役として一条金取立てなどに奔走したにもかかわらず、不正を当局に申し立てず、後から大村万助らに言い含めて「捨訴之頭取致候段」が「不届」であるとして死罪となり、上北村伊右衛門も江戸で捨訴をした上、亀五郎の御役御免は必定と主張して国元に運動費用200両を要求したことが「私欲」とみなされ、「存命に候ハバ引廻し上獄門」となりました。
ただし、大村万助と上北村伊右衛門は裁決を待たず吟味中に病死しており、広瀬屋清七郎が罪を引き受けたおかげで、駕籠訴人の片野村甚蔵と松本村長三郎が急度叱、他は科料といった比較的軽い刑罰で済んでいます。
以上の「天明騒動」は、同様に大原彦四郎・亀五郎父子2代の統治下で発生した「明和騒動」「安永騒動」とあわせて「大原騒動」と呼ばれ、犠牲になった人々の墓や供養塔、祠、顕彰碑などが今なお飛騨各地に存在します。
広瀬屋清七郎についても例外ではなく、寛政3年(1791)、跡津村の塞神神社に遺髪を納める「国吉大明神」の小祠が祀られ、明治41年(1908)、楢尾神明神社本殿に合祀されるとともに、明治45年(1912)には官吏・教育者・漢詩人として知られる水谷弓夫(奥嶺)撰文の顕彰碑「殉義蘇民の碑」が旧社地に建てられました。昭和38年(1963)には楢尾神明神社の末社として「国吉神社」が再建され、同時に大原騒動犠牲者87人も合祀されました。
このほか、下呂市の宮内神明宮には、昭和32年(1957)に広瀬屋清七郎のほか、初代高山県知事・梅村速水、地元の戦没者、村長や神官らを祀る境内社「川西彰魂社」が建てられています。
神社以外では、天明騒動で江戸への使送を務めた牛売りの大野郡根方村(今の高山市)弥平が施主となり、文化9年(1812)に広瀬屋清七郎・片野村善三郎(甚蔵の父)・松本村長三郎・上北村伊右衛門・大村万助を供養する「天明騒動供養塔」を村の庚申堂の隣に建立しています。
さらに下呂市内の夏焼地区に文政11年(1828)、乗政地区に安政7年(1860)、森地区に昭和2年(1927)の銘をもつ「清七菩提」などと刻む清七郎の供養碑が、金山町福来地区にも建立年月不詳の同様の供養碑が存在します。
参考文献
『大原騒動の研究』(菱村正文 飛騨郷土学会、1964年)
『岐阜県史』通史編 近世上(岐阜県編 岐阜県、1968年)
続飛騨叢書1『夢物語 飛州大原騒動回想録』(渡辺政定著・大野政雄校訂 斐太中央印刷、1974年)
『郷土を救った人びと 義人を祀る神社』(神社新報社編 神社新報社、1981年)
殉義蘇民の碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
殉義蘇民の碑
場所
岐阜県下呂市萩原町跡津地内
備考
「殉義蘇民の碑」は、国道257号のすぐ西側を並走する林間部の道路沿いにあり、他に「義民清七郎出生之地碑」や「大原騒動と広瀬屋清七郎・大沼村忠次郎」と書かれた副碑なども同じ敷地内に建てられています。
自動車を使うは、東海環状自動車道「美濃加茂インターチェンジ」から80分、又は中部縦貫自動車道「高山インターチェンジ」から60分です。公共交通機関を使う場合は、JR高山本線「下呂駅」からげろバス(川西南線)乗車20分、「ジークフリーダ前」バス停下車となります。
石碑の位置はバス停の西100メートルほどですが、国道とは直結していませんので、東京ファブリック化工の裏手まで迂回して10分以上歩く必要があります。
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