義民牛右衛門の碑(正吉村牛右衛門と平福領一揆)
元文4年(1739)、播磨国(兵庫県)の旗本・松井氏領において、折からの不作で困窮した百姓多数が乞食姿で平福宿に押し掛け、往来を妨害したり、酒食を強要する騒ぎが起こりました。この騒動では「張本人」として正吉村百姓の牛右衛門が捕らえられ、死罪の上家財闕所となりますが、近代に入りようやく牛右衛門を顕彰する石碑が建てられました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代、因幡街道の宿場のひとつであった播磨国佐用郡平福村(今の兵庫県佐用郡佐用町)には、周辺20か村を支配する旗本・松井康年の陣屋が置かれていました。
元文4年(1739)正月、美作国(今の岡山県)で「勝北非人騒動」が起こりますが、この流れは平福領内にも波及しました。同年初春、前年の不作で困窮していた村々の貧農たちが、飢扶持を求めて平福の町場に連日のように押し掛ける騒ぎがあり、陣屋では米・銀を支給して事態の収拾を図りました。
ところが同年3月に入ると、「平ふく会所へ百姓壱人も不残五ツ時出合そうたん可致候」と書かれた天狗状が平福村を除く領内各村に回され、これらの村々の百姓が傘連判形式で署名したのをきっかけに、大勢の百姓が「異形之体」の乞食姿に身をやつし、連日のように平福の町場に押し掛けるよう騒ぎとなりました。彼らは通行人の往来を妨害したり、町家で酒食をねだったりしたほか、大庄屋の田住三郎左衛門方でも貸付米の利息免除などの一連の要求を突き付けています。
陣屋では20か村の庄屋らを集め、今後は行動を慎む旨の請書を取るとともに、7月以降、一揆に関係した主だった者たちを次々と逮捕しました。そして翌年の元文5年(1740)4月、一揆の張本人として正吉村牛右衛門を家財欠所の上死罪、その他の者を追放などに処することを申し渡しました。
かくして元文5年6月、41歳の牛右衛門は金倉橋袂の佐用川原で処刑され、大正2年(1913)5月になってようやく「牛右衛門追慕碑」が建立されました。この碑は鳥取自動車道の工事に伴い、平成17年(2005)に末宗荒神社とともに末宗第一トンネル近くの高台に移築されています。
参考文献
『佐用郡誌』(兵庫県佐用郡編 佐用郡、1926年)
『百姓一揆-幕末維新の民衆史』(赤松啓介 明石書店、1995年)
義民牛右衛門の碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義民牛右衛門の碑
場所
兵庫県佐用郡佐用町延吉地内
備考
鳥取自動車道「佐用平福インターチェンジ」から車で2分。鳥取自動車道末宗第一トンネル南側の荒神社に隣接している。国道373号からの入口に「義民牛右衛門之碑 100m先」の案内看板がある。