首切り地蔵(増田五郎右衛門と蓑着一揆)
文化13年(1816)、田中藩領の駿河国志太郡細島村(今の静岡県島田市)は風災で不作となり、農民たちが藤枝宿に集まり不穏な状況の中、名主の増田五郎右衛門は藩主への直訴に及びました。藩は年貢減免を認める一方、多数の農民を捕縛して首謀者探しを始めたため、五郎右衛門が自ら首謀者と名乗り出て、文政元年(1818)に打首となりました。刑場には五郎右衛門の菩提を弔う「首斬り地蔵」が祀られ、後の時代には墓や頌徳碑も建てられました。
義民伝承の内容と背景
文化13年(1816)、駿河国志太郡細島村を大風が襲い不作となり、農民たちの生活が苦しくなったことから、庄屋の増田五郎右衛門は他村とも連携して田中藩に年貢減免を嘆願しますが、聞き届けられることはありませんでした。
そこで11月23日を期して五郎右衛門自ら田中藩への直訴に及ぶことに決め、領内にその旨呼びかけたところ、長楽寺村(今の藤枝市)天神山に領内70か村、5千人の農民たちが集まり、郷宿などを打ちこわし不穏な状況となりました。
増田五郎右衛門は農民たちを説得して暴動を起こさないように戒め、自身は藩主・本多正意への直訴に及ぶと、翌日には3割の年貢減免を認める通達が出されました。
しかしながら、その後の田中藩では強訴徒党の首謀者を厳しく詮索し、多くの農民を捕縛したことから、増田五郎右衛門は塚本・桜井の両名とともに首謀者だと名乗り出て投獄され、ついに文政元年(1818)6月28日、源昌寺原において42歳で打首となりました。
その後、源昌寺原の刑場には増田五郎右衛門の菩提を弔うために「首斬り地蔵」が祀られ、また細島村では命日を「首斬り正月」と呼び、村の仕事を休みにして遺骸を葬った全仲寺に墓参する風習が生まれたといいます。
明治時代になると自由民権運動とともに義民顕彰の機運も高まり、まず藤枝の長楽寺地区に「増田五郎右衛門碑」が建立され、次いで大正時代には全仲寺や東町八幡神社境内にも頌徳碑が建立されるようになりました。
さらに昭和59年には全仲寺の「増田五郎右衛門の墓」が再建され、平成30年には没後200年祭が行われるなどしています。
参考文献
『島田市史』中巻(島田市史編纂委員会編 島田市、1968年)
『大井川町史』中巻(大井川町史編纂委員会編 大井川町、1991年)
『静岡県史』通史編4 近世二(静岡県編 静岡県、1997年)
首切り地蔵の場所(地図)と交通アクセス
名称
首切り地蔵
場所
静岡県藤枝市大手1丁目14番街区
備考
東名高速道路「焼津インターチェンジ」から車で15分。源昌寺の敷地西端、墓地脇の住宅街の一角に地蔵堂がある。