甚三郎の供養石仏(杉箸村甚三郎と敦賀打ちこわし一揆)
天明4年(1784)、越前国小浜藩領の敦賀町(今の福井県敦賀市)で米価高騰に反発する打ちこわしが発生し、頭取として敦賀郡刀根村枝郷(今の敦賀市)甚三郎らが処刑されました。しかし、安値米の販売や施粥などが進んだことから、密かに供養のための地蔵が建てられました。
義民伝承の内容と背景
全国的に大凶作となった天明3年(1784)以降、越前国小浜藩領の敦賀町(今の福井県敦賀市)でも米価がじりじりと高値を更新するようになり、米の買占めや売惜しみをしていた商人らに対する反感が高まりました。
翌天明4年(1785)始めには、何者かが町内に「米買込候者ヲ一々こぼち可申」と打ちこわしを匂わせる不穏な内容の張札を立てたことから、驚いた商人の一部が貧民に施しをしますが、6月の米価は従来の2倍まで高騰しています。
6月20日夕方にも、「当町ニ米買〆之者有之間、廿三日之夕、町方へ罷出、右買〆之者打壊ツ」として、米の買占めを行う商家の打ちこわしを予告する張札がありましたが、商人たちは「定而おどしならん」と安心しきっていました。
ところが6月23日夜、予告通りに領内88か村の百姓3千人が新田河原に集結し、塔場口(今の敦賀市津内町周辺)から町内に押し寄せ、桶屋長次郎の屋敷を皮切りに8軒の商家を打ちこわして回るとともに、能登屋利兵衛ほかの屋敷では酒や飯を供出させ、夜明けとともに引き上げていきました。
これを「敦賀打ちこわし一揆」又は「杉箸騒動」といいますが、翌24日にも大勢の百姓が集まり鬨の声を上げたりしたものの、役人は様子見を決め込みなかなか現場に出張って来ず、待ちわびている間に夜が更けてしまったため、百姓たちも拍子抜けして一揆は終息に向かいました。
小浜藩では一揆が一段落すると責任者の追及を始め、翌天明5年(1786)に敦賀郡刀根村枝郷杉箸村の彦左衛門と甚三郎を捕縛し、6月26日に徒党を企てた頭取として来迎寺野で斬罪に処し、塔場口の木ノ芽川に架かる土橋に3日間にわたって梟首しました。
これ以降、敦賀町の富商たちは餓死者のための供養塔を建てるとともに、困窮百姓に米を安く小売したり、救小屋を建てて施粥をするなどして不満解消に努めました。寛政6年(1794)には処刑された甚三郎の供養のため、杉箸村中により池河内村から谷口村(ともに今の敦賀市)へ至る峠道に密かに地蔵の石仏が営まれました。
参考文献
『福井県史』通史編4(近世2)(福井県編 福井県、1996年)
『図説福井県史』(福井県編 福井県、1998年)
甚三郎の供養石仏の場所(地図)と交通アクセス
名称
甚三郎の供養石仏
場所
福井県敦賀市池河内地内
備考
北陸自動車道「敦賀インターチェンジ」から車で20分の「池河内湿原」で降車。公衆トイレのある場所から山道を15分ほど歩くと、道沿いの木の根元にある。