中川善兵衛の墓(中川善兵衛と佐渡一国一揆)
天保9年(1838)、佐渡国(今の新潟県佐渡市)を訪れた幕府巡見使に対し、佐渡一国惣代として羽茂郡上山田村百姓・中川善兵衛が佐渡奉行の苛政を訴えたものの、奉行所により捕縛されてしまいました。これを契機に数万人が善兵衛の釈放を要求し、小木町の問屋や米屋などを打ちこわす「佐渡一国一揆」に発展し、幕府は高田藩に出兵を命じるなどしてようやく鎮圧を図りました。善兵衛は江戸に身柄を送られ牢死したため、島内各地に善兵衛の供養塔が見られます。
義民伝承の内容と背景
天保9年(1838)、将軍・徳川家慶への代替わりに伴い、幕府は先例にならって諸国に巡見使を派遣し、佐渡島にもその報せがもたらされました。
数年来の不作を巡る奉行所の対応に不満を募らせた平百姓たちは、過重な年貢負担や広恵倉による専売制の是正などを求めて巡見使への強訴を企てました。
佐渡国羽茂郡上山田村の中川善兵衛は、島内200以上の村々からの賛同を取り付け、同年閏4月、佐渡一国惣代として巡見使に訴状を提出しました。
奉行所は徒党強訴の嫌疑で善兵衛を投獄しますが、その釈放を要求して数万人の百姓が奉行所に押し寄せたため、やむを得ず善兵衛を一旦釈放しました。
しかし、勢いに乗じた百姓たちは善兵衛の釈放だけでは満足せず、一揆の情報を奉行所に密告した八幡村名主・四郎吉宅を襲撃するとともに、専売品を取り扱う小木町の問屋10軒余りを打ちこわし、以後佐渡島各地で騒然とした状況が続きます。
前年に大塩平八郎の乱が発生していたこともあり、事態を重視した幕府は、高田藩兵を佐渡島に派遣して一揆の鎮圧を図りました。
再び捕縛された善兵衛は、佐渡相川での取調べの後、重大事件として江戸の幕府評定所に係属され、天保11年(1840)8月、頭取の中川善兵衛を獄門、参謀役を務めた神官の宮岡豊前を死罪、役人側では奉行の鳥居正房を御役御免などとする判決が下りますが、既に善兵衛は獄死した後でした。
参考文献
『羽茂町誌』第3巻 通史編(羽茂町史編さん委員会編 羽茂町、1993年)
中川善兵衛の墓の場所(地図)と交通アクセス
名称
中川善兵衛の墓
場所
新潟県佐渡市羽茂上山田地内
備考
小木港から車で15分。明治時代建立の宮岡豊後らと連名のもので、手前に近世の供養塔もある。