山中神明宰の碑(山中太郎右衛門と天明の飢饉)

山中神明宰 先賢・循吏の史跡
飢饉に際し独断で施米をした幕府代官の彰徳碑
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幕府陸奥代官だった山中太郎右衛門は、天明3年(1783)の飢饉に際し、独断で年貢を収納していた上米蔵じょうまいぐらを開いて出羽国置賜郡屋代郷(今の山形県東置賜郡高畠町)の人々に施しました。これに感謝した屋代郷4か村の人々が建てた「山中神明宰」と刻む碑は、今も安久津八幡神社の境内に残されています。

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伝承の内容と背景

江戸時代の明和7年(1770)、出羽国置賜郡屋代郷35か村は3分割され、それぞれ高畑藩領・米沢藩預地・幕府直轄領となりました。安永5年(1776)以降、このうち安久津村をはじめとする屋代郷10か村が大森役所(今の福島県福島市)扱いとなり、代官に着任したのが山中太郎右衛門幸正たかまさでした。

この山中太郎右衛門は、農地の新規開拓や荒廃地の復興(起返おこしかえし)を進めるとともに、領内の孝子や精農を表彰するなど善政に努めましたが、在任中の天明3年(1783)には、浅間山の噴火とあいまった天候不順から「天明の大飢饉」が起こりました。米沢藩奉行・莅戸善政のぞきよしまさが記した『三重年表』は、「天明三年卯六月廿九日、暮七ツ時より砂ふり申候、庭の草木共全躰白粉をふりかけ候様相見へ、珍敷事故爰めづらしきことゆゑここに記し申候」と降灰被害があったことを伝え、その後も「天明三年此年奥羽凶作ナリ」「市中米ナク各キソツテ求ル」「津軽ノ十二月初頃ハ、餓死日ニ百人ナラシバカリト云フ」などの不穏な記事が続きます。

山中太郎右衛門は飢饉による窮状を幕府に報告し、施米をする許可を求めようとしますが、江戸に向けて出発するに当たり、幕府の許可を得る前に、独断で年貢を収納していた上米蔵を開き、屋代郷の人々に分け与えてしまいました。『東置賜郡史』が伝えるところでは、太郎右衛門はこのとき、「我願意貫徹せずんば割腹せん、子等微徳を思はゞ其日を期し一遍の仏名を唱へよ」と、もしも許可が得られなかったら責任を取って切腹するつもりなので、少しでも恩義を感じてくれているのであれば念仏のひとつでも唱えてほしいと人々に語ったということです。

結果として太郎右衛門の至誠が通じ、幕府からは施米の件ばかりか、該当する村々の年貢免除まで勝ち取ることができたため、感謝した屋代郷の深沼・竹森・新宿(二井宿)・安久津4か村の人々は、天明6年(1786)4月、安久津八幡神社境内に「山中神明宰」と刻む大きな石碑を建てました。

このほか、大森役所支配の陸奥国信夫郡小倉村(今の福島市)においても、鹿島神社境内に天明7年(1787)9月の銘をもつ山中太郎右衛門の生祠(生前に神として祀った祠)が建てられています。太郎右衛門が亡くなるのは寛政10年(1798)のことで、江戸で葬られましたが、小倉村の陽林寺にも百姓らの寄進により「大慈院殿仁叟常山居士」の戒名を刻む供養墓が建てられ、今も手代元締・中澤道右衛門の墓と並んで門前にたたずんでいます。

参考文献

『東置賜郡史』下巻(東置賜郡教育会編 東置賜郡教育会、1939年)
『高畠町史』中巻(高畠町史編集委員会編 高畠町、1976年)
『山形県史』第3巻(山形県編 山形県、1987年)
『福島県史研究』復刊第23・24号(太田隆夫ほか 福島県史学会、1977年)

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山中神明宰の碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

山中神明宰の碑

場所

山形県東置賜郡高畠町大字安久津2011番地

備考

「山中神明宰の碑」は、安久津八幡神社の参道正面、茅葺きの舞楽殿の右手奥の山林内にあり、碑の手前には由来を記した看板が立てられています。なお、安久津八幡神社は東北中央自動車道「南陽高畠インターチェンジ」から車でおよそ10分の国道113号沿いにあり、入口に駐車場やトイレ棟が整備されています。道路挟んで反対側は「道の駅たかはた」です。JR山形新幹線・奥羽本線「高畠駅」からの路線バスはありません。