若宮神社(和泉新三郎と有馬検地)

有馬検地に抵抗した義民を祀る神社

2024年6月5日義民の史跡

慶長6年(1601)、福知山城主・有馬豊氏が領内で過酷な検地を実施したため、丹波国天田郡厚村(今の京都府福知山市)では、未進年貢を厳しく取り立てた役人を和泉新三郎が殺害する事件が起きたと伝わっています。その後、新三郎の墓が村人に祟りをなすため、小祠を建てて若宮神社として祀りました。

義民伝承の内容と背景

慶長5年(1600)、「関ヶ原の戦い」での活躍を認められた有馬豊氏は、丹波国福知山(今の京都府福知山市)6万石を与えられ、後に父・有馬則頼の遺領である摂津国三田(今の兵庫県三田市)2万石をも引き継いで8万石の大名となりました。

有馬豊氏は明智光秀が築いた福知山城の城下町を本格的に整備するとともに、領内で俗に「有馬検地」と呼ばれる検地を実施しました。この「有馬検地」は、元々の知行高8万石を5割増しの12万石にまで増やす「打出し検地」であり、土地が増加したわけでもないのに村高を無理に増加させられた農民たちは、重い年貢負担に苦しむようになりました。

福知山藩士・古川茂正らが著した『丹波志』によれば、丹波国天田郡厚村の和泉新三郎は、慶長6年(1601)の検地に当たり、「検地有テハ村人難立皆人窮シテ果ンヲ見レハ苦シキこと也」と、村人の困窮を見るに忍びず自殺したため、この村は検地を受けずに済んだということです。

同じく『丹波志』には、和泉の初代は和泉大掾だいじょうを名乗る大和浪人と言い伝え、新三郎はその二代目であり、子孫は厚村に居住し塩見氏を名乗っているとあります。

また一説によれば、厚村へ来た役人が未進の年貢を厳しく取り立てようとしたところ、これを遺恨に思った和泉新三郎が竹垣の内から手槍で突いて役人を殺害したのだといいます。新三郎自身も役人の下人を追い掛ける途中で待ち伏せに遭い、足を斬り倒されて亡くなってしましたが、そのおかげて村の未進年貢は免除されることになりました。

新三郎が村中により葬られたのは慶長6年6月11日のことであり、その後新三郎の墓が村人に祟りをなすため、小祠を建て若宮として祀られました。そして毎年6月11日を半日休みとし、神酒を供えて祭りを行う習わしも生まれました。

この厚村の伝説と同様に、天田郡土師村(今の福知山市)においても、検地に抵抗した農民たちが投獄された責任を取って庄屋の勘左衛門が自殺したため、彼らは解放されたといわれています。この一件により神として崇められた勘左衛門の墓碑は土師天満宮の境内に移され、若宮大明神の小祠に祀られました。

芦田完『福知山市誌』は、「朝暉あさひ神社文書」中の「福知山城古今御取箇秘伝書」に「百姓高役に潰るゝ土地なり」「五拾七ヶ村之内厚村・土師村有馬検地ヲ不受村ト云」などとあるのに注目し、苛烈な「有馬検地」の実態と農民の抵抗があったことを解き明かしています。

参考文献

『福知山市誌』下巻の1(芦田完 福知山市、1965年)
『福知山市史』第2巻(福知山市史編さん委員会編 福知山市、1982年)
『福知山市史』史料編2(福知山市史編さん委員会編 福知山市、1980年)
『京都府の地名』(柴田實・高取正男監修 平凡社、1981年)
『丹波志』天田郡巻五上一(永戸貞・古川茂正 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/file/1238299

若宮神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

若宮神社

場所

京都府福知山市厚小字安尾城山454

備考

「若宮神社」は、福知山市厚の安尾城山中腹にある「武神社」の境内社で、本殿の右手に鎮座しています。神社へのアクセスは、自動車であれば舞鶴若狭自動車道「福知山インターチェンジ」から国道9号を西へ10分、徒歩の場合は京都丹後鉄道宮福線「福知山市民病院口駅」から線路を越えて南東に10分ほどです。神社正面の参道は境内東側の狭い公道に面しており、アパート「グリーンハイツ」の角を曲がり奥に入ると、鳥居や案内板とともに、社殿に続く長い石段があります。国道9号沿いの「森成農産」脇にも裏参道の入口がありますが、こちらは特に鳥居や案内板はありません。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)