犬田布騒動記念碑(新山為盛と犬田布騒動)

写真:ぱくたそ(www.pakutaso.com)

2023年6月9日義民の史跡

江戸時代、薩摩藩の支配する奄美群島の徳之島では、特産物である黒糖の専売制が強化され、密売は死罪にあたる大罪とされていました。このような中、犬田布村(今の鹿児島県大島郡伊仙町)の農民・新山為盛が砂糖横流しの嫌疑で役人に捕らえられて拷問を受けたことから、元治元年(1864)3月18日、犬田布村の百姓150人あまりが蜂起する「犬田布騒動」が勃発し、一揆の首謀者たちは遠島となりました。昭和39年(1964)、犬田布騒動の百年祭が挙行されるとともに、子孫の手により「犬田布騒動記念碑」が建てられました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代には全国各地で百姓一揆が勃発していますが、薩摩国(今の鹿児島)では記録に残るものがほとんど見当たらず、薩摩藩が直轄支配する奄美群島の徳之島で起こった「犬田布騒動」がそのなかの数少ない一つとされています。

慶長14年(1604)の琉球侵攻後、薩摩藩では奄美群島(「道之島」)を直轄支配しますが、特に家老・調所広郷が藩政改革を主導するようになると、特産の黒砂糖の利益を独占するための専売制が強化され、百姓には水稲の代わりにサトウキビの作付を強制するとともに、砂糖をすべて藩が買い上げる「惣買入制」が導入されました。

島民による砂糖の私的売買(「抜糖」)は死罪をもって禁止され、砂糖を上納した余りの「余計糖」は藩が支給する日用品と交換、さらに余ったものは「羽書」とよばれる住所氏名記載の証書に交換し、これを貨幣の代わりに流通させるという徹底ぶりでした。

このような中、徳之島の伊仙曖(あつかい)犬田布(いんたぶ)村にいた70歳の百姓・福重が、干魃のため上納する砂糖が見積高に足りず、代官所の附役・寺師次郎右衛門から密売の嫌疑をかけられました。

福重が高齢のため厳しい取調べに耐えられないと考えた姪の夫にあたる新山為盛は、身代わりとして仮屋(役所)に出頭しますが、ここで割薪の上に正座させられ、足に重い石臼を載せられる拷問を受けました。

元治元年(1864)旧3月18日、血を吐くほどの拷問の様子に憤った犬田布の百姓150人あまりが、棒などを手にして仮屋を包囲し、囚われた為盛を救出するという一揆が勃発し(「犬田布騒動」)、役人たちは仮屋を抜け出して代官所がある亀津村(今の徳之島町)まで逃れました。

その後、百姓たちは島役人(末端行政を取り仕切る有力農民)の津口横目をしていた義仙を筆頭に、森に砦を築いて棒や鉄砲などの武器を持って立て籠もりますが、代官所の役人に包囲される中、切崩し工作によって砦を離れる者もあらわれ、1週間ほどで鎮圧されました。

一揆の指導者たちは捕縛され、そのうち義仙(津口横目)・喜美武・義福が大島に、義佐美(義仙の兄)・義武(砂糖掛)が沖永良部島に、安寿盛が与論島に遠島となり、他の者は道路補修の労役に駆り出される刑罰を受けて、「犬田布騒動」は幕引きとなりました。
なお、一揆の発端となった新山為盛は明治時代まで生きて83歳の天寿を全うしています。

この事件は島唄の「徳之島節」の一つとなって語り継がれたほか、戦後の昭和22年(1947)に劇作家の伊集田實が『犬田布騒動記』として劇団「熱風座」で公演、昭和39年(1964)の百年祭にあたっては子孫の手により「犬田布騒動記念碑」が建てられました。

参考文献

『伊仙町誌』(伊仙町誌編さん委員会編 伊仙町、1978年)
『犬田布騒動』(小林正秀 1968年、徳州新聞社)

犬田布騒動記念碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

犬田布騒動記念碑

場所

鹿児島県大島郡伊仙町犬田布地内

備考

県道83号伊仙天城線の「犬田布岬」の案内標識がある交差点を入って道なりに5、6百メートルほど進んだ突当り付近にあり、隣接する公園(前泊公園)入口や記念碑前に説明板が建っています。記念碑の脇にあるブロック塀で囲まれたお墓が新山為盛のもの(「犬田布騒動義士為盛公之墓」)です。墓前にコンクリート舗装された駐車場があります。

この史跡については現地での写真撮影が未了となっています。

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)