源三神社(岩本源三と可須村越訴)

役人の不正を直訴して処刑された百姓を祀る

2023年5月20日義民の史跡

江戸時代の壱岐島は松浦藩が支配していましたが、役人が年貢を計量する枡を操作して蓄財したり、農民に田地を割り当てる地割で不正をしたとして、文政2年(1819)、壱岐国壱岐郡可須村(今の長崎県壱岐市)百姓の岩本源三が江戸に上って将軍・徳川家斉に直訴に及びました。源三は江戸で捕らえられ、壱岐島まで護送された上で処刑されました。明治時代に入ると、源三を義人として顕彰する目的で「源三神社」などが建てられました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の壱岐島は松浦藩が支配していましたが、役人が年貢を計量する枡を操作して、百姓から年貢を取り立てるときは容積が3斗5升と大きな納枡を用い、給与のときは3斗2升と小さめの京枡を用いて、差額3升分を不正に蓄財していました。

また、壱岐島では百姓の世帯構成などを基に定期的に耕作する田畑を割り当て直す「地割制」が取られていましたが、文化10年(1813)の地割の際、割奉行の中尾丹弥は、自身も可須村で耕作をしていたことから良田を先取りして自分のものにし、残りを他の百姓に割り当てる不正を行ったといいます。

この不正に憤った可須村百姓の岩本源三(源蔵、源造とも)は、江戸に上って将軍・徳川家斉へ直訴することを企てました。これを察知した中尾丹弥が夜中に槍をもって密かに寝所を襲ってきたときには、鉈で槍の穂先を切り落として証拠として持ち去り、そのまま船で逃走したとも伝えられます。

源三は江戸に潜伏し、文政2年(1819)10月、将軍の行列に出くわした機会に駕籠に訴状を投げ込んで目的を果たすものの捕縛され、江戸からまず平戸藩に送り返され、平戸の牢屋を経てさらに壱岐島へと送られました。

壱岐島では丹弥の屋敷の馬小屋に押し込められ、市中を曳き廻された上で、文政3年(1820)4月2日に壱岐の百間馬場の刑場において43歳で処刑され、その後幕府から呼出しがあったときには既にこの世にはいなかったといわれます。

なお、現在では地元の八株講が保管していた古文書の記述から、史実としては享和3年(1803)に源三が徒党を組んで地割の不正に抗議、文化11年(1814)に遠島となり、その後島抜けをして幕府に訴訟をしたらしいことがわかっています。この訴訟に関連して、文政2年(1819)2月には八株講の面々も平戸に呼び出されて吟味を受けますが、特にお咎めもなく帰還できたことを天佑神助と喜び、太宰府天満宮にお礼参りをしています。

江戸時代が終わり明治時代になると、藩や幕府を憚る必要がなくなったことから、源三を義人として顕彰する目的で立派な墓が営まれました。明治31年(1898)には百姓源三を神として祀る「源三神社」が建てられ、他にも島内各地に勧請されています。

参考文献

『壱岐郷土史』(後藤正足 壱岐民報社、1918年)
『石田町史』行政編(石田町教育委員会編 石田町教育委員会、1991年)
『勝本町史』(勝本町編 勝本町、1985年)
『壱岐国史』(山口麻太郎 長崎県壱岐郡町村会、1982年)

源三神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

源三神社

場所

長崎県壱岐市勝本町東触地内

備考

高尾山麓の道路沿いに「高尾山源三神社」と記した小さな看板が立っている。ここから壱岐四国八十八ヶ所霊場の「高尾堂」を目指して坂道を登ると、その奥の「御崎神社」の末社の石祠のひとつに「源三神社」がある。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)