天草四郎時貞の墓碑(益田時貞と島原の乱)

一揆軍の指導者と目されたキリシタンの墓

2023年5月3日義民の史跡

寛永14年(1637)、過酷な徴税とキリシタン迫害に耐えかねた島原・天草の民衆3万7千人が益田四郎を総大将に蜂起し、原城に籠城しましたが、幕府軍の総攻撃の前に全滅しました。今日でも現地にはこの「島原の乱」犠牲者の供養塔をはじめとするいくつかの遺跡がみられます。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の初め、島原藩主の松倉勝家は領内に重税を課し、禁教令によるキリシタンの取締りも苛烈を極めました。平戸オランダ商館長クーケバッケルがインド総督に宛てた書簡は、年貢未進者に蓑を着せた上から火を掛ける「ミノ踊り」という拷問があったことを伝えています。加えて天候不順による凶作と飢饉に見舞われる中、寛永14年(1637)10月25日、有馬地方の農民が代官を殺害する事件が発生し、これをきっかけに島原半島各地で領民たちが一斉に蜂起しました。

幕府は上使として三河深溝藩主の板倉重昌を現地に派遣し、周辺諸藩を動員して鎮圧に動いたことから、一揆勢は他のキリシタンから「天人」と崇められていた益田時貞(天草四郎)を総大将に仰ぎ、廃城となっていた原城を修復して立て籠もりました。

以後、一揆勢3万7千人と幕府軍12万人とが3か月の長きにわたって対峙することとなりますが、この間にも寛永15年(1638)元旦の総攻撃で板倉重昌はあえなく戦死し、次いで上使として着陣した老中・松平信綱は、徹底した兵糧攻めで城内の食糧・弾薬の枯渇を待ちました。

そして同年2月27日、幕府軍による再度の総攻撃が満を持して行われ、幕府軍に内応し原城内の牢に幽閉されていた南蛮絵師・山田右衛門作を唯一の例外として、一揆勢は女子供に至るまで皆殺しの対象となり、翌28日をもって原城は陥落しました。

現在、「島原の乱」の主戦場となった原城跡は国史跡に指定され、長崎の「平和祈念像」で知られる地元出身の彫刻家・北村西望による「天草四郎像」が建てられるとともに、南島原市の民家の石垣から発見された「天草四郎」と刻む墓碑も移設されています。ほかにも乱後に幕府領となった島原の初代代官・鈴木重成による「島原・天草一揆供養碑」など、周辺には往時を物語るいくつかの遺跡が存在しています。

参考文献

『長崎県島原半島史』中巻(林銑吉編 長崎県南高来郡市教育会、1954年)
『天草四郎』(海老沢有道 人物往来社、1967年)
『長崎県史』史料編 第3(長崎県史編纂委員会編 吉川弘文館、1966年)

天草四郎時貞の墓碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

天草四郎時貞の墓碑

場所

長崎県南島原市南有馬町乙地内

備考

国道251号沿いに「原城跡」の大看板があるので道なりに進む。「原城温泉 真砂」の手前に観光客用の無料駐車場がある。

関連する他の史跡の写真

原城跡
ホネカミ地蔵
板倉重昌の碑
島原・天草一揆供養碑

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)