冨田才治碑(冨田才治と虹の松原一揆)
2023年5月21日義民の史跡
明和8年(1771)、唐津藩の農漁民2万5千人が天領との境界にあたる虹の松原に集結し、新税撤回などを要求する「虹の松原一揆」を起こしました。肥前国松浦郡平原村(今の佐賀県唐津市)の大庄屋・冨田才治の指導により、一旦は犠牲者を出すことなく要求が認められましたが、その後の唐津藩の追及は厳しく、見かねた才治ら4人が一揆の首謀者として名乗り出て、明和9年(1772)、西の浜において処刑されました。今では才治を義民として慕う人々によって、さまざまな場所に神社や石碑などが建立されています。
義民伝承の内容と背景
三河国(今の愛知県)岡崎藩では、6代藩主・水野忠辰が藩政改革を進め、藩財政の好転や能力本位の登用などの大きな成果を上げますますが、これが保守派の家老らの抵抗で頓挫すると、吉原の遊女を藩費で身請けするなど乱心の振舞いに及び、ついに主君押込により隠居を強制されました(「水野騒動」)。次いで岡崎藩主となった水野忠任も、宝暦12年(1762年)には三河国岡崎藩から肥前国(今の佐賀県)唐津藩に転封となります。
唐津藩主となった水野忠任は、藩財政強化のために地方奉行・小川茂手木らの献策を容れて増税策をとりますが、これが旧慣無視として農民・漁民の大きな反発を招きました。そして明和8年(1771)7月20日、2万5千人余の領民が幕府領との境界にあたる虹の松原(「二里松原」)に集結して、諸運上(新税)の廃止、「永川」などといわれた耕作不能地への課税、楮(こうぞ)専売の撤回などを要求する「虹の松原一揆」が勃発します。
このとき、一揆勢は松浦郡平原村の大庄屋である冨田才治らの指導のもと、役人への暴言は禁止する、退去を命じられても無言を通す、目的達成まで退去しないなどの掟を守り、整然と行動したため、幕府領に迷惑をかけて処罰されることを怖れた藩の思惑ともあいまって、無血のうちに一揆勢の要求が認められました。
しかし、その後の唐津藩による首謀者探しの追及は厳しく、見かねた冨田才治らは藩に自首し、冨田才治と半田村名頭の麻生又兵衛、常楽寺住職の智月和尚、市丸藤兵衛の4名が一揆の翌年の明和9年(1772)3月11日、西の浜で斬首の上、街道筋に梟首されました。
明治33年(1900)、「虹の松原一揆」を主導した冨田才治の地元に巨大な「冨田才治碑」が建てられたのを始め、今でも唐津市内を中心とする各地に一揆の犠牲者を悼む祠や顕彰碑などがみられます。
参考文献
『唐津市史』(唐津市史編纂委員会編 唐津市、1962年)
『佐賀県史』中巻(佐賀県史編さん委員会編 佐賀県史料刊行会、1968年)
『日本庶民生活史料集成』第6巻 一揆(森嘉兵衛・原田伴彦・青木虹二編 三一書房、1968年)
冨田才治碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
冨田才治碑
場所
佐賀県唐津市浜玉町平原地内
備考
佐賀県道306号七山唐津線沿いの平原保育園角を曲がり東へ150m進むと大きな石碑がある。
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村松 風洽(フリーライター)