六之神社(浦庄屋佐兵衛と津屋崎・勝浦漁場相論)
隣浦との漁場争いが絶えなかった筑前国宗像郡津屋崎村(いまの福岡県福津市)では、浦庄屋・佐兵衛(左兵衛)ら6人が福岡藩に直訴し、6人が重さ300貫の大石を担いで海岸を移動し、力尽きた場所をもって境界とすることに決しました。彼らは漁場拡大に成功するものの、寛永17年(1640)に全員が死罪となり、後に「義民六人士」として祀られることになります。
義民伝承の内容と背景
玄界灘に面し、近世から近代にかけて「津屋崎千軒」と呼ばれる繁栄を誇った筑前国宗像郡津屋崎村は、その北に位置する勝浦村との漁場争いが絶えませんでした。津屋崎村は近海に岩場が迫る地形であり、村の人口も多く、漁業で生計を維持するには困難な環境だったことがその理由です。
津屋崎の浦庄屋・佐兵衛、組頭・七郎兵衛、長兵衛、甚兵衛、作右衛門、孫右衛門の6人は、この困難を打開するために一致協力して福岡藩に直訴を行いました。その結果、浦奉行・篠原助右衛門、相役・小清水一角の立会いの下、6人が俵瀬にあった重さ300貫(1トン以上)の大石を担ぎながら浜辺を歩いて力尽きるか、又は藤蔓で作った大石を結わえた縄が切れた場所をもって境界とすることとなりました。
寛永17年(1640)6月1日、この境界確認が実行に移されるものの、6人は力尽きることなく延々と白石浜の海岸を10町(約1キロメートル)ほども担ぎ続けたため、さすがの浦奉行も刀を抜いて強制的に綱を切り捨て、そこが津屋崎と勝浦との浦境に決まったといいます。
こうして津屋崎村では漁場拡大に成功したものの、浦庄屋・佐兵衛ら6人が強訴に及び不埒な振舞いがあったとして、翌日には箱崎浜で斬首されてしまいました。その際、佐兵衛は辞世として「骨くだく 思いもしぶきと 消へさりぬ 白石浜の 今日の夕映へ」と詠んだと伝えられています。
また、吉本某という福岡藩士が佐兵衛ら6人に心から同情し、刑の執行前に末期の水の代わりにと味噌汁を贈ったため、その後6人の遺族から吉本家に味噌の原料である麦を贈る風習が生まれたということです。
処刑された6人は津屋崎村の教安寺に埋葬され、首塚として「六角堂」に墓碑が造立されていますが、天保5年(1834)に福岡藩から祭祀を許されて以降は「六之(ろくし)神社」や「六社宮」にも神として祀られています。近くは昭和43年(1968)、地元の津屋崎漁業協同組合が白石浜海水浴場の外れに「六人士の歌碑」を建てています。
参考文献
『福岡県史』通史編 福岡藩(一)(西日本文化協会編 福岡県、1998年)
『宗像郡誌』上編(伊東尾四郎編 深田千太郎、1944年)
六之神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
六之神社
場所
福岡県福津市津屋崎4丁目33番1号
備考
波折神社境内社として社殿右奥に社号を刻んだ石鳥居と石祠がある。