若宮社(今村久兵衛と片平騒動)
寛永7年(1630)、伊予国久米郡片平村(今の愛媛県松山市)で干魃が起こり、里正(庄屋)の今村久兵衛が検見の上で年貢を減免するよう代官に願い出ますが、聞き届けられることはありませんでした。そこで自暴自棄になった村人が田に火を掛けて不作の稲を燃やし尽くしたことから、徴税忌避を疑った松山藩により多数の農民が捕らえられる一大事となります。これら農民の身代わりとなって田に火を掛けたのは自分の一存だと主張した今村久兵衛は朝生田原で磔刑となり、後に村人たちによって墓や祠堂が造られました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代前期、伊予国久米郡片平村は松山藩主・蒲生忠知の領地でしたが、高台に位置し乾燥しがちで灌漑に不向きなものの、重信川の氾濫を恐れた農民たちは、結局はこの場所で生活せざるを得ない状態でした。
寛永7年(1630)、この地で大規模な干魃が起こったため、里正(庄屋)の今村久兵衛は、稲の作柄を調査する検見をした上で年貢を減免するよう代官に願い出ますが、聞き届けられることはありませんでした。
そこで自暴自棄になった村人が田に火を掛け、ウンカによる虫害を後年に残さないよう不作の稲を燃やし尽くしたことから、火災を理由にした課税逃れを疑った松山藩により多数の農民が捕らえられる一大事となります。
これを「片平騒動」と呼んでいますが、今村久兵衛は彼らの窮状を見かね、田に火を掛けたのは自分の一存だと藩庁に訴え出たため、多数の農民が釈放されるのと引き換えに、その身代わりとして朝生田原で磔に処せられ、妻子も追放となりました。
時に8月2日のことといい、処刑直前に赦免使が早馬で駆け付け、扇を振りかざして中止を求めたところ、逆に処刑の合図と勘違いされ、急に槍で突かれて絶命したという伝説も残ります。
処刑から約100年後の享保13年(1728)には百年祭が営まれるとともに、地元に今村久兵衛の墓が建てられました。他に長徳寺の境内にも「若宮様」として久兵衛が祀られています。
今でも毎年8月には地元の古川町内会で供養が行われているほか、市道の一つにもアダプト制度を活用した同会の提案により「きゅうべえ通り」の愛称が付けられ、「今村久兵衛顕彰碑」も建てられています。
参考文献
『伊予史談』第2冊(原著第42号)(伊予史談会編 名著出版、1975年)
『愛媛県史』近世 下(愛媛県史編さん委員会編 愛媛県、1987年)
若宮社の場所(地図)と交通アクセス
名称
若宮社
場所
愛媛県松山市古川南3丁目20番28号
備考
松山自動車道「松山インターチェンジ」から車で5分の長徳寺境内、山門入ってすぐ左側に鎮座する。