治兵衛堂(工藤治兵衛と大保木騒動)
江戸時代前期の寛文4年(1664)、米が穫れず難儀をしていた石鎚山麓の村々では、年貢米の銀納を求め、中奥山庄屋・工藤治兵衛らを総代として、西条藩主の一柳直興に直訴に及びました。しかし、願いは聞き届けられなかったばかりか、工藤治兵衛とその倅5人を含む16人が捕らえられ、城下梛木の刑場で無惨にも処刑されました。藩主・一柳直興は失政を理由に改易され、後に銀納も認められたことから、村人たちは工藤治兵衛の墓や「治兵衛堂」を建てて供養し、「銀納義民」として語り継ぎました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代前期のこと、険峻な石鎚山の麓にある伊予国新居郡大保木(おおふき)山・中奥山・東之川山・西之川山・黒瀬山の5か村では、米が満足に穫れず難儀をしていたため、年貢米の銀納を求めて時の領主にしばしば嘆願に及びますが聞き入れられませんでした。
年貢米の納付を買米に頼る状況で、とうとう米価高騰に耐えられなくなった5か村では、庄屋・組頭・百姓代らが大保木村の会所に集まり、嘆願書をしたためた上で血判を押して結束を固めました。
寛文4年(1664)、中奥山庄屋の工藤治兵衛(治平)が頭取となって、5か村を銀納請所とするよう、この嘆願書を西条藩の代官・鈴木九左衛門に、次いで藩主の一柳直興に直接提出しました。
しかし、こうした願いもむなしく、工藤治兵衛と倅の利左衛門・申松・文太郎・文四郎・林蔵はじめ16人が捕らえられ、同年11月28日に西条梛木の刑場で処刑されました。
天保年間に西條藩主の命を受けて儒者の日野和煦(にこてる)が編纂した『西條誌』には、「六人の内四五歳の小児あり、執刀の者蜜柑を与ふ、小児喜ひて是を食居たるを、後より斬れば、蜜柑きり口より出と云、聞も鼻を酸する程也」とあります。
小児を哀れんだ太刀取りの役人がミカンを与えると喜んで食べたが、処刑後、頸の切り口からミカンが出てきたという酸鼻極まる話として、処刑の一件が地元で長く語り継がれていたことがわかります。
寛文5年(1665)、藩主・一柳直興は「常々家中並領内百姓等の仕置悪しく」と失政を理由に改易され、この地域は一時収公されて松山藩預地となりますが、捕縛された中で唯一生き残った大保木山庄屋・高橋平左衛門が弟の吉左衛門を惣代に立てて嘆願を続けた結果、寛文10年(1670)、ついに5か村の諸運上の銀納が認められ、10年越しの悲願が叶うこととなりました。
村では工藤治兵衛一族の墓や位牌を祀る「治兵衛堂」を建て供養してきましたが、平成26年(2014)には「銀納義民350周年記念事業」が挙行されるなど、現在でも「銀納義民」の呼び名でさまざまな顕彰活動が続けられています。
参考文献
『愛媛県史』近世下(愛媛県史編さん委員会編 愛媛県、1987年)
『伊予西条藩史・小松藩史』(秋山英一 伊予史籍刊行会、1931年)
『西條誌稿本』巻之11(日野和煦 西條誌稿本復刻版刊行委員会、1977年)
治兵衛堂の場所(地図)と交通アクセス
名称
治兵衛堂
場所
愛媛県西条市中奥2号地内
備考
「治兵衛堂(治平堂)」は、松山自動車道いよ西条インターチェンジから石鎚ふれあいの里方面へ車で30分ほど進んだ山間部にあります。愛媛県道12号西条久万線からの分岐付近の擁壁に「工藤治兵衛の墓」と書かれた小さな案内板がありますので、つづら折れの坂を道なり進むと行き止まりが駐車場です。「治兵衛堂」は処刑された工藤治兵衛一家の墓に隣接しており、史跡を示す標柱があります。