五社神社(山口吉右衛門と藍玉一揆)
宝暦6年(1756)、徳島藩による藍専売制強化を巡り、阿波国内(今の徳島県)の藍作農家による徳島城下への強訴が計画されますが、密告により未遂に終わりました。この「藍玉一揆」の首謀者として名西郡高原村(今の名西郡石井町)の山口吉右衛門ら5人が捕らえられ、翌年の宝暦7年(1757)に磔刑に処せられました。その後、藍方御用場の廃止などが実現したことから、感謝した農民たちによって「五社明神」に祀られました。
義民伝承の内容と背景
徳島藩では10代藩主・蜂須賀重喜の時代、財政の立直しを図るため、不作によって藍作農家が困窮する中、藍方御用場(藍方奉行所)による葉藍の専売制を強化しようとしました。
これに対して、藍作人や藍師に課せられる葉藍取引税と、藩に冥加金を納めて許可を受けた者以外には販売を認めない仕組みとなる寝床株の撤回を要求する大規模な一揆の計画が持ち上がります。
しかし、宝暦6年(1756)閏11月28日を期して吉野川流域の名東・名西・板野・麻植各郡の藍作農家が同時に決起し、徳島城下に押しかける手筈だった一揆は、廻状を受け取った寺院の密告により藩当局に察知されてしまいます。
この一揆は「藍玉一揆」と呼ばれ、実際に閏11月18日には阿波国名西郡高原村の王子権現の社に近隣から多数の百姓が集まり騒ぎ立てるなどの動きがあったものの、結局は未遂に終わりました。
藩は首謀者の捕縛と拷問による自白の強要を進め、翌宝暦7年(1757)3月25日、名西郡高原村の駈出奉公人・山口吉右衛門をはじめ、同村の山口市左衛門・後藤常右衛門・後藤京右衛門・宮崎長兵衛のあわせて5人を鮎喰川原で磔に処しました。
『名西郡高原村百姓騒動実録』には、数万人という大勢の百姓が落涙しつつ見守る中で処刑が行われ、「其翌日より罪人の前へ賽銭を投げて、押合群集す。是前代未聞なり。」と、刑場に放置されていた遺体にも賽銭が絶えなかった様子が記されています。
その後、葉藍取引税や藍方御用場の廃止など藩の重税路線が改められたため、これを感謝した農民たちは天明元年(1781)の二十五回忌を機に連判状を埋めて5人を祀る「五社明神」の小祠を設け、寛政元年(1789)の三十三回忌には改めて社殿を建立しました。
寛政6年(1794)には罪人を神に祀るのは不都合として徳島藩が祭祀を禁じたことから、「融大明神」と改称して密かに信仰が続けられましたが、嘉永5年(1852)に至って藩は社殿をまったく破却してしまいました。
明治元年(1868)になると「天満天神」と称して小祠が再興され、明治12年(1879)には「五社神社」として公許、同16年(1883)に社殿が建立され、今も地元の人々の信仰を集めています。
ほかにもこの「五社神社」の真南300メートルほどの飯尾川沿いに「二社神社」があり、こちらは処刑された後藤常右衛門・京右衛門の両人を弔うために造立された宝篋印塔形式の墓と石祠を祀っています。
「五社神社」最寄りの県道を西に700メートルほど進んだ薬師寺(薬師庵)の境内には、明和8年(1771)に住職の覚心が5人を供養するため建立した宝篋印塔が残り、その200メートルほど東の路傍には山口吉右衛門の墓があります。
参考文献
『石井町史』上巻(石井町史編纂会編 石井町、1991年)
『阿波国最近文明史料』(神河庚蔵編 臨川書店、1973年)
『百姓一揆の研究』続編(黒正巌 ミネルヴァ書房、1959年)
五社神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
五社神社
場所
徳島県名西郡石井町高原字東高原411番地
備考
徳島自動車道「土成インターチェンジ」から車で15分、県道232号平島国府線を南に入った集落内に鎮座する。