建立寺(北野孫兵衛と山代慶長一揆)

処刑された山代十一庄屋の位牌を祀る寺

2023年5月12日義民の史跡

慶長13年(1608)、長州藩の慶長検地と高率な年貢に対する反発から、周防国玖珂郡本郷村(今の山口県岩国市)庄屋・北野孫兵衛ら11人を中心とする「山代慶長一揆」が起こり、年貢は引き下げられたものの、11人全員が引地峠で磔となりました。これら「山代十一庄屋」を50年にわたり供養し続けた僧侶が創建した「建立寺」をはじめ、今でも地元には義民ゆかりの数々の遺跡が残されています。

義民伝承の内容と背景

「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将となった毛利家は、戦後処理の過程で112万石から29万8千石へと減封され、財政の逼迫を招いたことから、慶長検地により石高を増やすとともに、俗に「防長三白」と呼ばれる米・塩・紙の生産を奨励し、租税収入の強化でこの難局を乗り切ろうとしました。

錦帯橋で有名な錦川の上流地域はかつて「山代郷」と呼ばれ、長州藩と他藩との国境にあたるほか、紙の原料の楮がよく採れたため、地域の中心である周防国玖珂郡本郷村に代官所が置かれ、新たな検地と田方7つ3分の免(73パーセント)という極端に高い年貢率を通じた収奪も苛烈を極めました。

そこで慶長13年(1608)10月29日、本郷村庄屋・北野孫兵衛はじめ山代郷10か村の庄屋らが代官所に愁訴したところ、要望どおり年貢率は4つ(40パーセント)に引き下げられました。これは単なる愁訴ではなく、庄屋は本郷八幡宮に集まり一味神水し、百姓は城山に山上がり(逃散)をしたという言伝えもあります。

翌年の慶長14年(1609)、代官所は北野孫兵衛らに出頭を命じ、3月29日、引地峠において庄屋10人・百姓1人を即日磔に処し、首級を見せしめのため本郷村の物河土手(今の本郷川)に晒しました。

これら11人の犠牲者は「山代十一庄屋」と呼ばれており、うち北野孫兵衛の首は地元民が夜陰に紛れて梟首台から盗み出し、成君寺山の赤江という場所に葬って無銘の墓石を建てたと伝えられています。

また、『防長風土注進案』によれば、本郷村の安養院に寓居していた深誉休伝という僧侶は、山代十一庄屋の梟首場に出向いて日々念仏を唱え、以後も年忌法要を欠かさず五十回忌まで勤め上げたため、その態度が殊勝として代官の村上七兵衛から褒美を賜ったといいます。

代官の口添えにより藩の許しを得た休伝が寛文4年(1664)に安養院から本尊を移して開基したのが建立寺であり、同寺には明治5年(1872)に再製された山代十一庄屋の合同位牌が今も安置されています。

ほかにも明治32年(1899)に成君寺住職・神田宮城の撰文により地元有志が同境内に建立した「山代十一庄屋頌徳碑」など、周辺には山代十一庄屋ゆかりのさまざまな遺跡が見られます。

参考文献

『山代の心』(本郷村「ふるさとの歴史を知る会」編 山代義民顕彰会、2000年)
『本郷村史』第2巻(本郷村教育委員会編 本郷村、1996年)
『防長風土注進案』第3巻(山口県文書館編 マツノ書店、1983年)

建立寺の場所(地図)と交通アクセス

名称

建立寺

場所

山口県岩国市本郷町本郷1470番地

備考

県道134号秋掛錦線と県道59号岩国錦線の交差点付近、「周防本郷」バス停から県道に沿って西へ300メートル進む。

関連する他の史跡の写真

❶北野孫兵衛首塚
❷山代十一庄屋頌徳碑
❸山代代官所跡
❹梟首場跡
❺本郷八幡宮
❻引地峠処刑場跡
❼大刀洗いの池
❽河内神社(多賀社)

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)