平尾代官所跡(西谷村又兵衛と竜門騒動)

代官刺殺の舞台となった一揆ゆかりの地

2023年6月15日義民の史跡

大和国吉野郡龍門郷(今の奈良県吉野郡吉野町・宇陀市)15か村は旗本・中坊広風の知行所でしたが、出役(代官)の浜島清兵衛が増税を強行しようとしたため、文政元年(1818)、西谷村又兵衛ら6百人が平尾代官所に押しかけて代官を殺害し、平尾村大庄屋宅を打ちこわす「龍門騒動」が起こります。奈良奉行所による吟味の末、西谷村又兵衛が市中引回しの上獄門、ほか多数が死罪や追放、過料といった処罰を受けました。現地には代官所跡や代官の墓などが残ります。

義民伝承の内容と背景

江戸時代後期、大和国吉野郡龍門郷15か村3,500石は旗本・中坊広風の知行所でした。

当時の龍門郷の年貢は、まず一部を米納し、残りを貨幣換算の「石代銀」として銀納する仕組みでしたが、代官所は米納分の精米品質を厳しく検査したほか、1石当たりの銀の値段も引き上げ増徴を図ったため、幕府領に比べ過重な負担になっていました。

そこで吉野郡西谷村の商人・西谷又兵衛は、同村の源八や三津村善兵衛ら(ともに今の吉野町)同志と語らい、庄屋宅に張札をして15歳から60歳までの男子を山口大宮(吉野山口神社)に集め、強訴に参加するようにと村々の百姓を扇動しました。

この動向を察知した出役(代官)の浜島清兵衛(浜島清、市太夫ともいう)は、先んじて大庄屋を平尾村(今の吉野郡吉野町)にあった代官所に集めて宴会を開き説得を依頼しようとしましたが、そこに一揆勢600人ほどが押し寄せたため、一同狼狽して陣屋内を逃げ惑う騒ぎとなりました。

浜島清兵衛は厠(便所)に逃れるものの、比曽村(今の吉野郡大淀町)百姓の定吉に見つかったため、これを一刀のもとに斬り捨て、屋根に登ってなお防戦に努めました。

しかし、激昂した百姓の竹槍で屋根から庭に突き落とされて刺殺され、江戸時代を通じても稀な、代官殺害にまで至る過激な一揆となりました。

一揆勢はその後も平尾村大庄屋・池田沢右衛門の酒蔵などを打ちこわし、さらに一揆に唯一参加しなかった矢治村(今の吉野町)に押し掛けようとしましたが、夜が明けたために断念し、文政元年(1818)12月15日の一夜限りでこの「龍門騒動」は収束しました。

騒動を知った奈良奉行所は、早速役人を平尾に出張させて多くの百姓を召し捕らえ、文政3年12月(1821年1月)には徒党狼藉の罪で西谷村又兵衛を奈良町引廻しの上陣屋最寄で獄門とする裁決を下しました。

もっとも又兵衛は奈良奉行所による過酷な吟味により既に牢死した後だったため、「死骸取捨」を申し付ける取扱いとなりました。

この「龍門騒動」を経て龍門郷では減税や年貢分納も認められるようになったといいますが、一揆の記憶は「一つとや竜門騒動は大騒動二十まで作りた手まり唄歌おうかいな」から始まる数え歌として長く地元で語り継がれました。

参考文献

『近世大和地方史研究』(木村博一 和泉書院、2000年)
『芝村騒動と龍門騒動』(上島秀友・上田龍司 青垣出版、2016年)
『吉野町史』上巻(吉野町史編纂委員会 吉野町役場、1972年)

平尾代官所跡の場所(地図)と交通アクセス

名称

平尾代官所跡

場所

奈良県吉野郡吉野町大字平尾地内

備考

京奈和自動車道「五條北インターチェンジ」から車で25分、「津風呂湖北口」バス停向かいの幸の神神社角を南へ50メートル進む。

関連する他の史跡の写真

❶浜島清兵衛の墓

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)