岐尼神社(山田屋大助と能勢騒動)

大塩の乱に触発された能勢騒動の始まりの地

2023年5月28日義民の史跡

天保8年(1837)、「大塩平八郎の乱」に触発された山田屋大助らは、「徳政」を求めて摂津国能勢郡(今の大阪府)で決起、「徳政大塩味方」の幟を掲げ打ちこわしを行いますが、追手に包囲されたために全員が討死又は自決しました。一揆勢が集合した「岐尼神社」をはじめ、当時を偲ぶことができる場所がいくつか残されています。

義民伝承の内容と背景

江戸時代後期の天保8年(1837)、能勢地域では凶作に加えて農間余業となっていた酒造用の薪炭の需要も減少し、百姓の困窮は深まっていました。
このような中、同年2月には大阪東町奉行所の元与力による「大塩平八郎の乱」が起こりますが、摂津国能勢郡山田村(今の豊能郡能勢町)の出身で、大坂で薬屋家業の傍ら剣術指南をしていた山田屋大助もこの義挙に触発された一人でした。

山田屋大助は今井藤蔵・佐藤四郎右衛門・本橋岩次郎・三津平(本橋と三津は途中で逃亡)と語らい、妙見詣りや親の病気見舞いといった名目で大坂を抜け出すと、7月2日夜に能勢山を下りて能勢郡今西村(今の豊能郡能勢町)の杵の宮(今の岐尼神社)に向かいました。
ここを本陣に定めた一同は、村々に廻状を巡らし、神宮寺の早鐘を打って百姓を集め、「徳政大塩味方」の幟を掲げて決起しました。

彼らは稲地村庄屋宅に金や米の無心に出向いた際、抵抗した番人を一刀のもとに斬り殺し、要求を受け入れず逃亡した片山村(いずれも同町)庄屋宅では諸道具に至るまでことごとく打ちこわしたことから、恐怖した庄屋や富豪たちは人足や金銭、酒食を差し出すようになり、最終的な一揆勢の数は2千人にまで膨らみました。

同時代の大坂の町医者が著した『浮世の有様』には口上書を載せていますが、米価高騰で「百人の内五十人は餓死可仕事つかまつるべきこと」という惨状の中で、国内にある米を人数平均に配給して命をつなぐことと、「帝様」から諸国の領主に徳政令を発することを関白あてに要求しています。
このように一揆勢は当初京都へ進撃の予定とみられていましたが、名月峠を旗本能勢氏の地黄陣屋にいち早く封鎖されたため断念し、7月4日朝に杵の宮を発ち西へと進みました。

こうして同夜には川辺郡左曽利村(今の兵庫県宝塚市)の万正寺に投宿しますが、寺が鳴動する怪異(地震とみられている)のため人足400人が逃亡してしまいます。『浮世の有様』はこのときの様子を「其夜萬しやう寺の堂動き、其時大将恐れ刀を抜き空中を切払ひ申候」と伝えています。

やがて一揆勢は大坂鈴木町代官の根本善左衛門らによって追い込まれ、翌7月5日には川辺郡木器村(今の兵庫県三田市)まで逃れて興福寺に立て籠もりました。
追手の空鉄砲に驚いた百姓たちは四散し、最期を悟った山田屋大助・今井藤蔵・佐藤四郎右衛門の3人の大将は抜刀して門前の坂を駆け下るものの、結局は銃撃あるいは自決によって全滅し、一連の「能勢騒動」は目的を果たすことのないまま終末を迎えることになりました。

「能勢騒動」「能勢一揆」「山田屋大助の乱」と呼ばれるこの事件を引き起こした山田屋大助ら大将分3人の遺体は、腐敗防止のため石灰とともに箱に詰められて大坂へと運ばれたほか、一揆に参加した農民も遠島や入牢、追放、過料などの処罰を受けています。

参考文献

『能勢町史』第1巻(能勢町史編纂委員会編 能勢町、2001年)
『三田市史』第1巻 通史編1(三田市史編さん専門委員編 三田市、2011年)
『大阪府史』第7巻 近世編3(大阪府史編集専門委員会編 大阪府、1989年)

岐尼神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

岐尼神社

場所

大阪府豊能郡能勢町森上103番地の3

備考

能勢電鉄「山下駅」から阪急バス(能勢町宿野行)で約20分、「森下」バス停で下車すると、バス停の西200mの県道沿いに鎮座している。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)