川崎久左衛門供養塔(川崎久左衛門と岸和田領強訴)

藩主襲封に当たり強訴した庄屋を供養する題目塔

2023年4月17日義民の史跡

寛永17年(1640)、国替えに伴い年貢負担が増大することを恐れた岸和田藩の領民たちは、和泉国(大阪府)沼村庄屋・川崎久左衛門らを中心に、初入国しようとした領主・岡部宣勝を城下の欄干橋に待ち受けて強訴しようとしました。結果として年貢減石は認められるものの、久左衛門らは津田河畔で斬首されため、後に供養のための題目塔などが建てられました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代前期、岸和田藩5万石は松平康映が治めていましたが、播磨国山崎藩(今の兵庫県宍粟市)に転封となり、代わりに摂津国高槻藩(今の大阪府高槻市)から岡部宣勝が6万石で入封することとなりました。

1万石の増石により年貢負担が増した領内108か村の庄屋と百姓らは、領主交代を機に年貢減石を求める一揆を企て、寛永17年(1640)9月11日、城下の欄干橋に集結して新領主の到着を待ち受けました。

岡部宣勝一行は菊右衛門橋のあたりでこのことを知り、百姓らに退去を促すものの聞き入れないことから、道順を変えて海岸沿いから潮入門に迂回して岸和田城に入城したということです。

この「寛永の強訴」の結果として、108か村の年貢は3千石の減額が認められたといいますが、一方で罪を問われた南郡沼村庄屋の川崎久左衛門、信達庄屋某、土生村庄屋の土生庄右衛門の3人が津田河畔で斬首されました。

津田川べりには処刑された川崎久左衛門らを供養するため「南無妙法蓮華経」と刻む題目碑が建てられたほか、土生村内にも土生庄右衛門を供養するための五輪塔(「土生墓」)が造立され、藩を憚り「歯神」と称されました。

もっとも、「土生墓」は庄屋ではなく郷士・土生重右衛門の墓である、「はぶがみ」の音が転化して「はがみ」になった、などの説もあります。

また、かつての沼村に当たる岸和田市沼町地区では、岸和田だんじり祭における入庫行事として「おっしゃんしゃんのしゃんころべ」と唱和しながら相撲を取る習わしがあり、これは「お庄屋さん」である川崎久左衛門に感謝する意味合いとされています。

参考文献

『大阪伝承地誌集成』(三善貞司 清文堂出版、2008年)
『岸和田市史』第三巻(岸和田市史編さん委員会編 岸和田市、2000年)
『土生郷村誌』(岸和田市編 岸和田市、1940年)

川崎久左衛門供養塔の場所(地図)と交通アクセス

名称

川崎久左衛門供養塔

場所

大阪府岸和田市五軒屋町7番9号

備考

阪神高速4号湾岸線「岸和田南出入口」から車で5分。岸和田城の北西500メートルにある円教寺の山門入って左側にある。元は津田河畔の処刑場にあったものが円教寺境内に移設された。なお、門前は時間帯により自転車歩行者専用道路規制があるので自動車は注意のこと。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)