平地地蔵(吉田新兵衛と宮津藩文政一揆)

義民を密かに供養するため造られた巨大な石地蔵

2023年6月2日義民の史跡

文政5年(1822)、宮津藩では年貢先納や新税賦課に反発した数万人規模の百姓による「宮津藩文政一揆」が勃発し、大庄屋の屋敷などを打ちこわしながら宮津城下に押し寄せました。家老・栗原理右衛門の名代として派遣された子の百助らが慰撫して一揆はようやく鎮まりましたが、その後の藩の追及は厳しく、文政7年(1824)、頭取として吉田新兵衛が打首、義弟の為治郎が獄門となりました。天保3年(1832)には吉田新兵衛・為治郎の追悼を目的に「平地地蔵(平智地蔵)」が建立されました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代後期の文政年間、宮津藩主・松平宗発(むねあきら)は接待や賄賂による猟官運動の末に幕府の寺社奉行加役にまで出世しますが、そのための出費が嵩んだことから儒者の沢辺北溟(沢辺淡右衛門)らによる藩財政の立直しが行われます。
例えば領内に1万5千俵もの年貢の前払い「追先納米」(既に行われていた「先納米」と呼ばれる年貢の前払いに追加したもの)を賦課したり、「万人講」と称して領民に1人1日3文ずつの日銭を貯蓄させ、庄屋を通じて藩に上納させる事実上の人頭税を導入したりしました。

丹後国与謝郡石川村奥山分(今の京都府与謝郡与謝野町)の吉田為治郎は、百姓から集めた税の一部が取りまとめ役である庄屋の役得となることを藩士の関川権兵衛(家老・栗原理右衛門の異母弟)から聞き、義兄の新兵衛らと相談して藩への強訴を企てました。

文政5年(1822)12月13日深夜、石川村と山田村の村境に当たる野田川の河原で篝火が焚かれたのを合図に、宮津藩最大の一揆といわれる「文政一揆」が勃発し、一揆勢は石川村の上組大庄屋・芦田庄兵衛の屋敷などを襲った後、犬の堂口(今の宮津市)の番小屋に放火して宮津城下になだれ込み、町名主をはじめとする豪商の屋敷を打ちこわして回りました。
大手門前の群衆を見て驚愕した宮津藩は、百姓の信望が厚い江戸家老・栗原理右衛門を急遽登城させて百姓を説得することにしましたが、理右衛門は高齢な上に江戸から国許に帰ったばかりであったため、子の百助が名代に派遣されました。
藩は万人講の廃止、追先納米の免除、貧農対策として米千俵の放出などを約束する書付けを交付したことから、18日夜明けまでに領内120か村、5万人といわれる一揆勢は村々に引き揚げていきました。

しかし、その後の宮津藩の対応は厳しく、江戸から家老の有本助左衛門が派遣されて責任者の捕縛や詮議がはじまり、文政7年(1824)4月22日には犬の堂において吉田為治郎が獄門、吉田新兵衛が討首(打首)となり、他にも永牢や所払などの処罰を受けた者が多数に上りました。
役人側でも関川権兵衛が百姓を唆したとして死罪、栗原理右衛門・百助父子が勝手に触書を出したとして入牢となり、沢辺北溟にも御勝手頭取の御役御免と蟄居が命じられました。
なお、栗原百助は無実を訴えるため足軽の協力を得て揚り屋から脱獄し、江戸藩邸へと向かう途中、宮津藩の飛び地だった近江八幡の西光寺で追手に囲まれ、逃れられないと見るや住職に遺書を渡して切腹して果てたといいます。

天保3年(1832)、吉田新兵衛・為治郎を追悼するため、多くの百姓が資金を出し合い、表向きは先祖供養と道中安全の名目で、平地峠に高さ5.3mもの巨大な地蔵菩薩の立像が建立されました。
参道の石段は35歳で処刑された新兵衛に因み35段あるといい、雪深いこの地方ならではの行事として、冬場に地蔵に頭巾と蓑を着せる「平地地蔵の蓑着せ」が今も行われています。

また、『与謝郡誌』神宮寺の項目に「地蔵堂には一丈六尺の大石地蔵を安置し、文政五年冬十二月宮津封内苛酷の誅求に堪へかねて一揆を起し、骸骨を刑場に捨てゝ領民を救ひし義民吉田新兵衛同為治郎等追弔の為めに常吉村平治庵の大石地蔵と共に造立する所なりと」とあることから、嘉永2年(1849)造立の「大石地蔵」にも「平地地蔵」と同様の伝承があることがわかります。

「文政一揆」の経緯は江戸時代にも『宮津騒動夢物語』『農民蜂起与謝噺』『宮津事跡記』などに書き留められていますが、大正時代に入ると特に義民顕彰の運動が活発化し、菩提寺の福寿寺で百年忌の法要が営まれたほか、老翁坂(今の宮津市)には頭山満揮毫の「義士義民追頌碑」が建立されました。

参考文献

『宮津市史』通史編 下巻(宮津市史編さん委員会編 宮津市役所、2002年)
『丹後史料叢書』(橋本信治郎ほか編 丹後史料叢書刊行会、1927年)
『資料集 平智地蔵の謎』(福井禎女 あまのはしだて出版、2007年)

平地地蔵の場所(地図)と交通アクセス

名称

平地地蔵

場所

京都府京丹後市大宮町上常吉地内

備考

山陰近畿自動車道「与謝天橋立インターチェンジ」から車で10分、京都府道76号線の峠道にあり、一帯が公園化されている。駐車場あり。

関連する他の史跡の写真

❶文政一揆蜂起の地
❷大石地蔵
❸義士義民追頌碑
❹犬の堂の碑
❺栗原親子の墓
❻栗原百助切腹の石

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)