田辺藩郡奉行の林六三郎は、干ばつに悩む丹後国加佐郡上福井村のため、隣村・上東村(ともに今の京都府舞鶴市)との共同水利として、建地峠でのため池造成を推進しました。「豊池」と呼ばれるこのため池は文化9年(1812)に完成し、六三郎は感謝した人々により「豊池神社」に祀られました。
伝承の内容と背景
しかし、予定地の大部分が上東村の区域に含まれることから、上福井村の人々は水利権が上東村に専有されることを恐れ、一方の上東村の人々は、築堤のため良田を潰さざるを得ないことに加え、洪水の際に破堤して農地に被害が生じることを心配したため、話は容易にまとまりませんでした。
林六三郎は中筋組大庄屋の森脇源三郎に相談して百姓らの説得に当たった結果、上福井村が上東村から敷地を買い取り、藩の助成を受けて建地峠の下にため池を築くこと、及び上東村でもこれとは別に碓井峠の下に単独でため池を築くことが決まり、文化7年(1810)にようやく着工の運びとなります。
実際に工事が始まってみると、碓井峠のほうは水深が浅く、水量を確保するためには長大な築堤が必要となり、費用がかさむことがわかりました。そこで建地峠のほうを上福井村・上東村共有のため池とし、中筋組・川口下組からそれぞれ人足と資金を出し合って整備することにしました。
せっかく造った堤が大雨で崩れるなど工事は難航しましたが、六三郎はたまたま付近に滞在していた尾張国(今の愛知県)の「黒鍬」と呼ばれる土木技術者10人ばかりを呼び寄せて専門的な指導に当たらせ、文化9年(1812)、足かけ3年にわたる工事を完成させることができました。
このため池は「豊池」と呼ばれ、面積は2町4反歩(およそ2.4ヘクタール)あり、53町歩(およそ53ヘクタール)もの田地を潤したと『舞鶴市史』には書かれています。
文化11年(1814)には造成の経緯が『建地塘之記』にまとめられるとともに、藩主・牧野以成と郡奉行・林六三郎正苗を祀る「豊池神社」の小祠が建てられ、現在も上福井地区の鎮守である八幡神社の境内にあります。
林六三郎は文化15年(1818)2月に京都で亡くなり、田辺城下の見樹寺に葬られましたが、明治42年(1909)には林家の子孫と旧藩主を招いて「百年祭」が斎行されるなど、その後も顕彰が続けられています。
参考文献
『舞鶴市史』通史編上(舞鶴市史編さん委員会編 舞鶴市、1993年)
豊池神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
豊池神社
場所
京都府舞鶴市上福井62番地
備考
「豊池神社」は、京都丹後鉄道宮豊線「四所駅」を降りて北に200メートルほどの、建部山南麓にある「八幡神社」の境内に鎮座しています。長い石段の参道を進むと本殿の手前に小祠があり、内部に「奉勧請 牧野以成公 林六三郎正苗神霊」とある木札が祀られています。なお、「八幡神社」参道入口には「四所」バス停があり、JR舞鶴線・京都丹後鉄道宮豊線「西舞鶴駅」から京都交通バス(大江線)に乗車すれば10分ほどです。自動車の場合、舞鶴若狭自動車道「舞鶴西インターチェンジ」又は京都縦貫自動車道「舞鶴大江インターチェンジ」からの所要時間はともに15分ほどで、国道175号に面しています。神社専用の駐車場はありませんが、付近の「四所駅」前にはおよそ20台分の駐車場があります。
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