九州地方

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義民の史跡

犬田布騒動記念碑(新山為盛と犬田布騒動)

江戸時代、薩摩藩の支配する奄美群島の徳之島では、特産物である黒糖の専売制が強化され、密売は死罪にあたる大罪とされていました。このような中、犬田布村(今の鹿児島県大島郡伊仙町)の農民・新山為盛が砂糖横流しの嫌疑で役人に捕らえられて拷問を受けた...
義民の史跡

心諒尼公園(小山弥兵衛と生野一揆)

元文3年(1738)、凶作が続く但馬国(今の兵庫県)生野代官所支配の村々では、年貢減免や夫食拝借を求めて約3千人が代官所に強訴し、要求は認められるものの、その後は死罪6人を含め多くの百姓が処罰を受けました。朝来郡東河庄野村(今の兵庫県朝来市...
義民の史跡

六之神社(浦庄屋佐兵衛と津屋崎・勝浦漁場相論)

隣浦との漁場争いが絶えなかった筑前国宗像郡津屋崎村(いまの福岡県福津市)では、浦庄屋・佐兵衛(左兵衛)ら6人が福岡藩に直訴し、6人が重さ300貫の大石を担いで海岸を移動し、力尽きた場所をもって境界とすることに決しました。彼らは漁場拡大に成功...
義民の史跡

冨田才治碑(冨田才治と虹の松原一揆)

明和8年(1771)、唐津藩の農漁民2万5千人が天領との境界にあたる虹の松原に集結し、新税撤回などを要求する「虹の松原一揆」を起こしました。肥前国松浦郡平原村(今の佐賀県唐津市)の大庄屋・冨田才治の指導により、一旦は犠牲者を出すことなく要求...
義民の史跡

源三神社(岩本源三と可須村越訴)

江戸時代の壱岐島は松浦藩が支配していましたが、役人が年貢を計量する枡を操作して蓄財したり、農民に田地を割り当てる地割で不正をしたとして、文政2年(1819)、壱岐国壱岐郡可須村(今の長崎県壱岐市)百姓の岩本源三が江戸に上って将軍・徳川家斉に...
義民の史跡

法界平等碑(永田隆三郎と弘化大一揆)

弘化4年(1847)、肥後国(今の熊本県)天草地方で一種の徳政令に当たる「百姓相続方仕法」の延長を巡って1万5千人規模の「弘化大一揆」が発生し、「銀主」と呼ばれる高利貸しの屋敷などが打ちこわしに遭いました。この一揆では天草郡古江村(今の天草...
義民の史跡

山陰百姓一揆供養塔(畝原覚之丞と山陰一揆)

元禄3年(1690)、郡代の苛政に耐えかねた日向国臼杵郡山陰村(今の宮崎県日向市)の百姓たちが延岡藩領から高鍋藩領へと逃散し、幕府裁定で多数が処罰されました。その一方で藩主・有馬清純も越後国(今の新潟県)糸魚川藩に転封となったことから、後に...
義民の史跡

杢右衛門の供養塔(因尾村杢右衛門と文化一揆)

文化9年(1812)、重税に苦しむ豊後国海部郡因尾(いんび)村(今の大分県佐伯市)ほかの百姓4千人が、「願望拾ヶ条」を掲げ強訴に及ぶ「文化一揆」が勃発します。佐伯藩では家老・戸倉織部らを出張させて百姓側と交渉し、願いの趣旨を認めましたが、そ...
義民の史跡

馬原供養塔(穴井六郎右衛門と馬原騒動)

延享3年(1746)、豊後国日田郡馬原(まばる)村(今の大分県日田市)庄屋・穴井六郎右衛門ら3人は、幕府日田代官・岡田庄太夫俊惟(としただ)の苛政に対抗し、年貢減免と夫食米借用を求めて江戸で越訴に及びました。いったん帰国した一同は代官に捕ら...
義民の史跡

天草四郎時貞の墓碑(益田時貞と島原の乱)

寛永14年(1637)、過酷な徴税とキリシタン迫害に耐えかねた島原・天草の民衆3万7千人が益田四郎を総大将に蜂起し、原城に籠城しましたが、幕府軍の総攻撃の前に全滅しました。今日でも現地にはこの「島原の乱」犠牲者の供養塔をはじめとするいくつか...
義民の史跡

八竜天神社(高松八郎兵衛と久留米藩大一揆)

宝暦4年(1754)、久留米藩の人別銀賦課に端を発して、数万人規模の百姓が参加する全藩一揆「久留米藩大一揆」が勃発します。藩は人別銀を撤回するものの、責任追及のため300人以上を捕縛、御原郡大庄屋・高松八郎兵衛はじめ37人を処刑しました。八...
義民の史跡

赤尾丹治翁顕徳碑(赤尾丹治と文化一揆)

岡藩から起こった「文化大一揆」の影響を受け、文化9年(1812)、豊前国(大分県)でも井堰工事に係る加免や新税賦課に反対する百姓が蜂起し、庄屋宅などを打ちこわしました。この一揆の首謀者として下赤尾村丹治らが処刑され、近代以降、墓碑や顕彰碑が...