近畿地方

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義民の史跡

戸谷新右衛門の墓地(戸谷新右衛門と高野枡一揆)

享保5年(1720)、紀伊国伊都郡(今の和歌山県)高野山領の年貢の不正徴収に関連して、島野村庄屋・戸谷新右衛門が幕府に越訴し是正されたものの、帰郷後に石子詰で処刑されたという伝説があります。現地には新右衛門が生前に用意していたという墓が残っ...
義民の史跡

心諒尼公園(小山弥兵衛と生野一揆)

元文3年(1738)、凶作が続く但馬国(今の兵庫県)生野代官所支配の村々では、年貢減免や夫食拝借を求めて約3千人が代官所に強訴し、要求は認められるものの、その後は死罪6人を含め多くの百姓が処罰を受けました。朝来郡東河庄野村(今の兵庫県朝来市...
義民の史跡

夏梅太郎右衛門顕彰碑(夏梅太郎右衛門と熊野部村訴願)

播磨国多可郡熊野部村(今の兵庫県多可郡多可町)の庄屋・夏梅太郎右衛門は、生野代官に対して何度も減租を嘆願し、ついに明和元年(1764)6月25日、村内サイノ木において火刑に処せられたと伝えられます。明治時代になって夏梅太郎右衛門は義民として...
義民の史跡

義民碑と宝蔵(岡村源兵衛と延宝訴訟)

江戸幕府の「延宝検地」により豊臣秀吉以来の地子免除の特権を取り消されそうになった播磨国三木町(今の兵庫県三木市)では、平田町大庄屋・岡村源兵衛と平山町年寄・大西与三右衛門を惣代に選び、江戸へ出訴することとなりました。延宝6年(1678)には...
義民の史跡

天明志士紀念碑(中筋才蔵と縄騒動)

天明2年(1782)、淡路国(今の兵庫県)では縄供出や木綿の専売強化を巡って多くの農民が大庄屋の屋敷に押し掛け、負担軽減を強訴しました。徳島藩の本藩からも役人が出張して取調べがあり、新法は廃止されたものの、一揆の頭取として三原郡広田宮村才蔵...
義民の史跡

平地地蔵(吉田新兵衛と宮津藩文政一揆)

文政5年(1822)、宮津藩では年貢先納や新税賦課に反発した数万人規模の百姓による「宮津藩文政一揆」が勃発し、大庄屋の屋敷などを打ちこわしながら宮津城下に押し寄せました。家老・栗原理右衛門の名代として派遣された子の百助らが慰撫して一揆はよう...
義民の史跡

大塩平八郎の墓(大塩平八郎の乱)

天保8年(1837)、「天保の飢饉」に対する幕府の無策と私欲に走る豪商らに憤慨し、元大坂町奉行与力で陽明学者の大塩平八郎が門人らとともに大坂市中で反乱を起こしました。この「大塩平八郎の乱」は1日で鎮圧され、大坂市中の5分の1が焼失したほか、...
義民の史跡

北郷開樋殉難者之碑(鳴尾の義民と天正北郷樋事件)

天正19年(1591)、干魃に悩む摂津国武庫郡鳴尾村(今の兵庫県西宮市)は枝川上流の瓦林村(同市)から無断引水し、両村百姓の乱闘事件に発展しました。結果として鳴尾村の取水権は認められたものの、豊臣政権の「喧嘩停止令」に違反したとして、この翌...
義民の史跡

柿の木地蔵(中尾重兵衛と篠山藩越訴)

元和7年(1621)、篠山藩は不作につき柿などの生木物(なりきもの)の上納を領内に命じました。飢えに苦しむ百姓を見かねた丹波国多紀郡二ノ坪村(今の兵庫県丹波篠山市)の中尾重兵衛らが京都所司代に越訴し、新税は取止めとなったものの、重兵衛を含む...
義民の史跡

岐尼神社(山田屋大助と能勢騒動)

天保8年(1837)、「大塩平八郎の乱」に触発された山田屋大助らは、「徳政」を求めて摂津国能勢郡(今の大阪府)で決起、「徳政大塩味方」の幟を掲げ打ちこわしを行いますが、追手に包囲されたために全員が討死又は自決しました。一揆勢が集合した「岐尼...
義民の史跡

首切り地蔵(上月平左衛門と新野村越訴)

宝永5年(1708)、播磨国神西郡新野村(今の兵庫県神崎郡神河町)の大庄屋・上月平左衛門は、重税に苦しむ農民のため幕府に越訴しようとしますが、途中の根宇野村(今の神河町)で役人に追いつかれ斬殺されてしまいます。村人たちは平左衛門を憐れみ地蔵...
義民の史跡

孝子庄右衛門誕生地碑(山口与十郎と芝村騒動)

宝暦3年(1753)、大和国(奈良県)十市郡の芝村藩預地では百姓が高率の年貢に苦しみ、減免を求めて京都町奉行に越訴に及びました。結果として村々の負担は減少したものの、多数の百姓が牢死したほか、常盤村庄屋・彦市が死罪、八条村庄屋・与十郎らが遠...