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義民の史跡

北市騒動供養塔(北市村源右衛門と北市騒動)

宝暦7年(1757)、凶作による米価高騰を機に越中国城端町(今の富山県南砺市)の米屋が打ちこわされる「北市騒動」が起こり、頭取として北市村(今の南砺市)源右衛門らが処刑されました。宝暦8年(1758)には六字名号と刑死者・牢死者の名を刻む供...
義民の史跡

義人を祀る霊地(当代屋与次兵衛と輪島騒動)

安政5年(1858)、米価高騰を受けて能登国輪島町(今の石川県輪島市)の米屋や役人宅が打ちこわされる「輪島騒動」が起こり、米価統制や安値米の販売で沈静化が図られました。この一揆では頭取の当代屋与次兵衛らが獄門となったため、彼らを供養するため...
義民の史跡

若宮八幡宮(高橋安之丞と安之丞直訴事件)

江戸時代の貞享年間、土佐国吾川郡上八川村(今の高知県吾川郡いの町)で飢饉が起こり、里正(庄屋)の高橋安之丞が土佐藩に年貢減免を嘆願するものの、かえって彼を妬む者によって讒訴され、元禄元年(1688)に獄門に処せられました。人々は高橋安之丞の...
義民の史跡

道閑公園(園田道閑と浦野事件)

寛文5年(1665)、加賀国(今の石川県)鹿島半郡で給人・浦野孫右衛門が検地に反対し、十村役・園田道閑らもこれに同調したところ、加賀藩主の裁定により孫右衛門は切腹、道閑は磔となりました。現地にはこの「浦野事件」で刑死した道閑を供養するための...
義民の史跡

義民藤田民次郎顕彰之碑(藤田民次郎と民次郎一揆)

文化10年(1813)、弘前藩領の百姓2千人が城下に押しかけ、冷害による年貢減免を求め強訴しました。藩主・津軽寧親の英断により年貢の3年減免は認められたものの、首謀者として名乗り出た陸奥国津軽郡鬼沢村(今の青森県弘前市)の藤田民次郎が責任を...
義民の史跡

天保義民之碑(天保義民と見立て願出事件)

天保9年(1838)、加賀国石川郡(今の石川県)・越中国砺波郡(今の富山県)の肝煎らが凶作を理由に秋縮御請を拒否し、奉行による見立てを願い出たところ、奉行は肝煎ら村役人15人を投獄し拷問を加えた上、獄死せず生き残った10人とその家族113人...
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赤萩村一揆頭取供養碑(橋本弥太夫と今泉打ちこわし)

明和5年(1768)、越前国(今の福井県)で米価高騰の折に米を移出しようとした船主の館が打ちこわされる「今泉打ちこわし」が発生しました。頭取として南条郡赤萩村(今の南条郡南越前町)の橋本弥太夫ら4人が処刑されたことから、村では4人連名の墓碑...
義民の史跡

中川覚右衛門墓碑(中川覚右衛門の切腹伝承)

安永8年(1779)、三河国碧海郡安城村(今の愛知県安城市)では日照りや洪水のために不作となり、庄屋の中川覚右衛門は領主である久永内記に年貢減免を嘆願するものの認められませんでした。そこで覚右衛門は郷倉で切腹して果て、さすがの領主も年貢を減...
義民の史跡

萩原神社(野木久右衛門と御厨一揆)

天明3年(1783)、天候不順による大飢饉に見舞われた駿河国駿東郡萩原村(今の静岡県御殿場市)をはじめとする一帯の村々では、年貢減免を求めて小田原藩への強訴を企て、城下に赴く途中で役人の説得に応じて帰村しました。減免は僅かに認められたものの...
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崖山地蔵(原嶋源右衛門と成瀬・長津田村境界相論)

享保元年(1716)、武蔵国多摩郡成瀬村(今の東京都町田市)名主・原嶋源右衛門は、都筑郡長津田村(今の神奈川県横浜市)との間の境界争いに勝訴しますが、後に不正を問われて一家全員処刑されたといわれます。処刑地には供養のための「崖山地蔵」が建て...
義民の史跡

六之神社(浦庄屋佐兵衛と津屋崎・勝浦漁場相論)

隣浦との漁場争いが絶えなかった筑前国宗像郡津屋崎村(いまの福岡県福津市)では、浦庄屋・佐兵衛(左兵衛)ら6人が福岡藩に直訴し、6人が重さ300貫の大石を担いで海岸を移動し、力尽きた場所をもって境界とすることに決しました。彼らは漁場拡大に成功...
義民の史跡

義民助兵衛の碑(中島助兵衛と桐洞村越訴)

万治3年(1660)、美濃国武儀郡桐洞村(今の岐阜県下呂市)で尾張藩の重税に反対する農民が神社に屯集し、一揆寸前の状況となりました。同村の中島助兵衛はこれを宥めて単身で江戸に上り、藩主に直訴したところ、重税は解消されたものの、助兵衛は牢死し...