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義民の史跡

人頭税石(蒲戸砂川と多良間騒動)

1854年、琉球国の多良間島(今の沖縄県宮古郡多良間村)では役人が不正に税を取り立てたことから、蒲戸砂川(かまどうるか)ら5人が王府に直訴状を提出する「多良間騒動」が起こりました。結果として役人は処罰され、命を惜しまず島民の苦難を救った5人...
義民の史跡

伏見義民事蹟(文殊九助と天明伏見騒動)

天明5年(1785)、山城国伏見町(今の京都府京都市)の元町年寄・文殊久助ら7人は、伏見奉行・小堀政方による御用金賦課などの悪政を寺社奉行に直訴しました。小堀正方は罷免され、目的は果たされるものの、7人は取調べの最中に獄死又は病死しました。...
義民の史跡

保民祠(土川平兵衛と近江天保一揆)

天保13年(1842)、幕府による検地の不正に憤慨した近江国甲賀・野洲・栗太3郡の百姓4万人が蜂起する「近江天保一揆」が勃発します。本陣を取り囲まれた見分役人は三上山の洞窟に逃亡し、一揆勢は検地の「十万日日延べ」証文を勝ち取りました。しかし...
義民の史跡

置塩神社(滑甚兵衛と播磨寛延一揆)

凶作や御用金賦課により百姓の負担が増大した播磨国(今の兵庫県)姫路藩領では、寛延元年(1748)から翌年にかけて1万人規模の全藩一揆が発生し、鎮圧後に飾西郡古知之庄村滑(今の姫路市)の甚兵衛が磔となるなど、多数の百姓が処罰されました。現地に...
義民の史跡

平尾代官所跡(西谷村又兵衛と竜門騒動)

大和国吉野郡龍門郷(今の奈良県吉野郡吉野町・宇陀市)15か村は旗本・中坊広風の知行所でしたが、出役(代官)の浜島清兵衛が増税を強行しようとしたため、文政元年(1818)、西谷村又兵衛ら6百人が平尾代官所に押しかけて代官を殺害し、平尾村大庄屋...
義民の史跡

戸谷新右衛門の墓地(戸谷新右衛門と高野枡一揆)

享保5年(1720)、紀伊国伊都郡(今の和歌山県)高野山領の年貢の不正徴収に関連して、島野村庄屋・戸谷新右衛門が幕府に越訴し是正されたものの、帰郷後に石子詰で処刑されたという伝説があります。現地には新右衛門が生前に用意していたという墓が残っ...
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東村勘右衛門碑(松田勘右衛門と鳥取藩元文一揆)

元文4年(1739)、凶作にもかかわらず請免制による厳しい年貢取立てが行われた鳥取藩領では、5万人規模の惣百姓一揆「元文一揆」が勃発し、藩は郡代の米村所平を御役御免にするなどして事態の収拾を図りました。一方で因幡国八東郡東村(今の鳥取県八頭...
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宅和伊助翁神霊碑(宅和伊助と神門郡強訴)

享保17年(1732)、出雲国神門郡松寄下村庄屋・伊助と荒木村庄屋・源左衛門(いずれも今の島根県出雲市)は、蝗害による年貢減免を松江藩庁に訴えました。しかし、検見のために出張してきた藩役人が到着するよりも前に、地元百姓によって勝手に稲が刈り...
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元文一揆発頭人慰霊碑(北野村藤九郎と横仙一揆)

元文4年(1739)、不作が続く美作国勝北郡(今の岡山県)の幕府領で百姓3千人が蜂起し、野非人の扮装で富家に押し掛け米や金銭を要求し、鎮圧後に北野村(今の勝田郡奈義町)藤九郎・与三右衛門が死罪となりました。現地には「元文一揆発頭人義民藤九郎...
義民の史跡

七義士神社(大西権兵衛と西讃百姓一揆)

寛延3年(1750)、讃岐国(香川県)丸亀・多度津藩領では飢饉による年貢減免を求めて6万5千人規模の「西讃百姓一揆」が起こり、藩は要求の多くを認めたものの、後に三野郡笠岡村(今の三豊市)の大西権兵衛らが頭取として処刑されました。処刑された7...
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犬田布騒動記念碑(新山為盛と犬田布騒動)

江戸時代、薩摩藩の支配する奄美群島の徳之島では、特産物である黒糖の専売制が強化され、密売は死罪にあたる大罪とされていました。このような中、犬田布村(今の鹿児島県大島郡伊仙町)の農民・新山為盛が砂糖横流しの嫌疑で役人に捕らえられて拷問を受けた...
義民の史跡

新本義民碑(義民四人衆と新本義民騒動)

享保3年(1718)、岡田藩に入会山を接収された備中国下道郡新庄村・本庄村(いずれも今の岡山県総社市)の百姓惣代4人が江戸に出向いて藩主・岡田長救に直訴し、入会地の藩有化と賦役は解消されたものの、4人は飯田屋河原で死罪となりました。この「新...