義民の史跡 七義士神社(大西権兵衛と西讃百姓一揆) 寛延3年(1750)、讃岐国(香川県)丸亀・多度津藩領では飢饉による年貢減免を求めて6万5千人規模の「西讃百姓一揆」が起こり、藩は要求の多くを認めたものの、後に三野郡笠岡村(今の三豊市)の大西権兵衛らが頭取として処刑されました。処刑された7... 2023.06.10 義民の史跡
義民の史跡 犬田布騒動記念碑(新山為盛と犬田布騒動) 江戸時代、薩摩藩の支配する奄美群島の徳之島では、特産物である黒糖の専売制が強化され、密売は死罪にあたる大罪とされていました。このような中、犬田布村(今の鹿児島県大島郡伊仙町)の農民・新山為盛が砂糖横流しの嫌疑で役人に捕らえられて拷問を受けた... 2023.06.09 義民の史跡
義民の史跡 新本義民碑(義民四人衆と新本義民騒動) 享保3年(1718)、岡田藩に入会山を接収された備中国下道郡新庄村・本庄村(いずれも今の岡山県総社市)の百姓惣代4人が江戸に出向いて藩主・岡田長救に直訴し、入会地の藩有化と賦役は解消されたものの、4人は飯田屋河原で死罪となりました。この「新... 2023.06.09 義民の史跡
義民の史跡 五社神社(山口吉右衛門と藍玉一揆) 宝暦6年(1756)、徳島藩による藍専売制強化を巡り、阿波国内(今の徳島県)の藍作農家による徳島城下への強訴が計画されますが、密告により未遂に終わりました。この「藍玉一揆」の首謀者として名西郡高原村(今の名西郡石井町)の山口吉右衛門ら5人が... 2023.06.08 義民の史跡
義民の史跡 秀塚神社(重清村秀と重清騒動) 宝暦8年(1758)、阿波国美馬郡重清村(今の徳島県美馬市)組頭の妻・お秀は、村を代表して組頭庄屋の不正を徳島藩家老に直訴しました。結果として組頭庄屋は追放されたものの、お秀も鮎喰河原で打首となりました。村人たちはその墓を「秀塚」として鄭重... 2023.06.07 義民の史跡
義民の史跡 下田隼人翁碑(下田隼人の直訴事件) 江戸時代前期、小田原藩は財政悪化を埋め合わせるため領内の総検地を実施するとともに、新税として麦租を導入しようとしました。万治3年(1660)、相模国足柄上郡関本村(今の神奈川県南足柄市)名主の下田隼人は、小田原藩主・稲葉正則に麦租反対を直訴... 2023.06.06 義民の史跡
義民の史跡 久末義民地蔵(久末義民の門訴事件) 元禄6年(1693)、武蔵国橘樹郡久末村(今の神奈川県川崎市)が領主・佐橋内蔵之助の屋敷に年貢減免の門訴をしたところ、百姓19人が殺害される事件が起こりました。後に年貢は引き下げられましたが、村では犠牲者を供養するため数次にわたって地蔵尊を... 2023.06.06 義民の史跡
義民の史跡 藤尾社(平藤治の義民伝承) 寛政6年(1794)、武蔵国多摩郡高幡村(今の東京都日野市)の平藤治は、困窮百姓のため親類の名主に年貢減免を掛け合い入牢し、釈放前日に毒殺されたと伝わっています。現地には平藤治を祀る「藤尾社」が鎮座しています。 2023.06.06 義民の史跡
義民の史跡 義民六人衆の墓(義民六人衆と新井宿村越訴事件) 延宝5年(1677)、武蔵国荏原郡新井宿村(今の東京都大田区)の間宮太郎兵衛ら6人が、旗本・木原義永の悪政を幕府に直訴しようとして未遂に終わり、全員が木原邸で斬首される事件が起こりました。後に親類の間宮藤八郎は、両親の墓という名目でこれら「... 2023.06.06 義民の史跡
義民の史跡 心諒尼公園(小山弥兵衛と生野一揆) 元文3年(1738)、凶作が続く但馬国(今の兵庫県)生野代官所支配の村々では、年貢減免や夫食拝借を求めて約3千人が代官所に強訴し、要求は認められるものの、その後は死罪6人を含め多くの百姓が処罰を受けました。朝来郡東河庄野村(今の兵庫県朝来市... 2023.06.06 義民の史跡
義民の史跡 宗吾霊堂(木内惣五郎と佐倉宗吾一揆) 承応2年(1652)、下総国印旛郡公津村(今の千葉県佐倉市)の名主であった木内惣五郎は、佐倉藩の悪政を将軍に直訴し、処刑されたと伝わっています。その後、佐倉藩堀田家は改易されたことから惣五郎の祟りと噂され、『佐倉義民伝』として多くの文芸のモ... 2023.06.05 義民の史跡
義民の史跡 山神源治宮(椎名源治の義民伝承) 寛文2年(1662)、下総国香取郡牧野村(今の千葉県香取市)の椎名源治は地頭・黒川左馬の苛政を公儀に訴え、生埋めにして処刑されたといわれています。宝暦3年(1753)、椎名源治は石祠に祀られ、現在では社殿もつくられて「山神源治宮」となってい... 2023.06.05 義民の史跡