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義民の史跡

義少年合同の碑(二義少年と恋路・七房村水論)

江戸時代前期の寛文年間、周防国恋路村(今の山口県山口市)の2人の少年が、旱害に悩む村人のために宮野川上流の井手を切り、無断で川の水を村の水田まで引き入れました。この一件は上流の村との水論となって容易に解決を見なかったため、2少年は長州藩主・...
義民の史跡

朝来村三兵衛墓(三兵衛の義民伝承)

江戸時代、紀州藩田辺領内では郡奉行と代官による毛見が重複して行われており、接待に当たる百姓の煩いの種となっていました。紀伊国朝来村(今の和歌山県上富田町)の三兵衛は、郡奉行の毛見は無益と主張し、簀巻きにされ海中に沈められたと伝えられています...
義民の史跡

迎え地蔵尊(井上吉右衛門と郷中騒動)

明和6年(1769)、不作に見舞われた河内国(大阪府)丹南藩領では、多数の百姓が屯集して寄合を開くなど不穏となり、村役人の中にも年貢納入を拒否する者が現れました。この「郷中騒動」では多数の庄屋らが牢死したほか、北野田村庄屋・井上吉右衛門らが...
義民の史跡

光国稲荷(赤松源右衛門と享保一揆)

享保18年(1733)、丹後国(京都府)田辺城下で年貢率引下げや夫食米貸与を要求する「享保一揆」が起こり、藩は役人を罷免するとともに百姓側の要求を認めました。後になって二箇村年寄・赤松源右衛門が捕らえられて獄門に処せられたため、村人たちは源...
義民の史跡

定藤仙助の墓(定藤仙助と明和一揆)

明和7年(1770年)、備後国(今の広島県)福山藩領で凶作下での年貢増徴に反対する「明和一揆」が起こりました。結果として借米の年賦払いなどの要求が認められたものの、下竹田村庄屋・定藤仙助らが打首獄門となりました。地元には処刑者を供養する墓碑...
義民の史跡

恩徳碑(内田馬之丞と打田村越訴)

江戸時代前期、紀伊国打田村(今の和歌山県紀の川市)では検地役人の怨恨から重税が課せられるようになったため、慶安2年(1649)、神官・内田馬之丞が和歌山藩主・徳川頼宣に直訴し、年貢は元に戻されました。馬之丞は明和年間に「恩徳堂」に祀られまし...
義民の史跡

らん塔碑(片岡治兵衛と桶伏せの伝承)

慶安元年(1648)、丹波国報恩寺村(今の京都府福知山市)で猪による農作物の被害があり、庄屋・片岡治兵衛が年貢減免を求めたところ、福知山藩主・稲葉紀通の不興を買い、残忍な桶伏せの刑に処せられました。現地には治兵衛一家の法名を刻む墓碑が残され...
義民の史跡

さいの木神社(西尾六右衛門と三庄屋切腹伝承)

延宝6年(1678)、摂津国山口村(今の大阪府大阪市)の西尾六右衛門ら3庄屋は、西中島一帯での水害解消のため、幕府に無断で「中島大水道」を開削しました。彼らは竣工後に無断工事の責を負って切腹したことから、供養のために小祠が建てられ、これが今...
義民の史跡

朝来義民之碑(松岡新右衛門と享保一揆)

不作に悩む但馬国楽音寺村(今の兵庫県朝来市)では、享保9年(1724)に庄屋・松岡新右衛門が年貢減免を求めて生野代官に嘆願するものの受け入れられず、江戸に上って越訴を繰り返しました。新右衛門は八丈島に遠島となり、彼の地で没したため、後に菩提...
義民の史跡

義民牛右衛門の碑(正吉村牛右衛門と平福領一揆)

元文4年(1739)、播磨国(兵庫県)の旗本・松井氏領において、折からの不作で困窮した百姓多数が乞食姿で平福宿に押し掛け、往来を妨害したり、酒食を強要する騒ぎが起こりました。この騒動では「張本人」として正吉村百姓の牛右衛門が捕らえられ、死罪...
義民の史跡

風神鎮塚(中平善之進と津野山騒動)

江戸時代中期、土佐藩は専売制の強化で財政再建に当たろうとしますが、産物を安く買い叩こうとする特権商人と百姓らの軋轢が深まり、宝暦5年(1755)、高岡郡檮原村(今の高知県高岡郡檮原町)では一揆寸前の事態を迎えました。一揆の企ては阻止されたも...
義民の史跡

川崎久左衛門供養塔(川崎久左衛門と岸和田領強訴)

寛永17年(1640)、国替えに伴い年貢負担が増大することを恐れた岸和田藩の領民たちは、和泉国(大阪府)沼村庄屋・川崎久左衛門らを中心に、初入国しようとした領主・岡部宣勝を城下の欄干橋に待ち受けて強訴しようとしました。結果として年貢減石は認...