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義民の史跡

折立長老碑(折立長老と遠山騒動)

江戸時代初期、旗本・遠山景直の悪政に苦しむ信濃国伊那郡遠山郷(今の長野県下伊那郡・飯田市一帯)の百姓らは、幕府に直訴するための訴状の作成を浄林寺住職の「折立長老」に依頼します。ところが、密告により捕われて拷問を受けた長老が元和4年(1618...
義民の史跡

島田紋次郎の墓(島田紋次郎と武州世直し一揆)

慶応2年(1866)、横浜開港後のインフレによる米価高騰を契機として、上武一帯の200か村10万人が参加する「武州世直し一揆」が起こり、各地の名主・豪商宅が打ちこわされたり、岩鼻陣屋が襲撃されたりしました。この一揆では武蔵国秩父郡上名栗村(...
義民の史跡

関兵霊神社(遠藤兵内と伝馬騒動)

幕府が中山道沿いの村々に増助郷を課したことを端緒として、明和元年(1764)から翌年にかけて、武蔵・上野・信濃・下野4か国20万人が参加する大一揆「伝馬騒動」が勃発しました。幕府は百姓側の要求を全面的に受け入れ事態を収拾しましたが、後日、武...
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義人庄屋源吉頌徳碑(高足村源吉の義民伝承)

三河国渥美郡高足村(今の愛知県豊橋市)庄屋・源吉は吉田藩に年貢減免をたびたび嘆願し、安永3年(1774)に要求は認められるものの、若くして病死したといいます。現地には源吉の墓のほか、頌徳碑が建てられています。
義民の史跡

青嶋八幡宮神社(川口市郎兵衛と磔八幡の伝承)

天和元年(1681)、駿河国富士郡青島村(今の静岡県富士市)名主・川口市郎兵衛は、検地に反対して役人を立ち入らせず、鈴ヶ森で磔刑に処せられたと伝承されています。村では密かに八幡神社に市郎兵衛を合祀したため、「磔八幡」といわれたとのことです。
義民の史跡

天明山中騒動記念碑(北沢清兵衛と天明山中騒動)

浅間山大噴火の影響が残る天明4年(1784)、信濃国松代藩領の山中地方(今の長野県)の百姓たちが「天明山中騒動」を起こし、大挙して酒屋に押借しつつ松代城下に迫りますが、藩役人と交渉の末に解散を決めました。この一揆では水内郡地京原村(今の長野...
義民の史跡

冨田才治碑(冨田才治と虹の松原一揆)

明和8年(1771)、唐津藩の農漁民2万5千人が天領との境界にあたる虹の松原に集結し、新税撤回などを要求する「虹の松原一揆」を起こしました。肥前国松浦郡平原村(今の佐賀県唐津市)の大庄屋・冨田才治の指導により、一旦は犠牲者を出すことなく要求...
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義人小林孫左衛門之碑(小林孫左衛門と田野口領一揆)

宝暦4年(1754)、奥殿藩の飛び地であった信濃国佐久郡田野口村(今の長野県佐久市)において、年貢減免を求める百姓が陣屋に強訴する「田野口領一揆」が起き、その一部は江戸への出訴を企てました。頭取とみなされた割元・小林孫左衛門が打首となったこ...
義民の史跡

藤五郎神社(遠藤藤五郎と三保村越訴)

江戸末期の安政の大地震は農地にも甚大な被害を及ぼしましたが、駿河国有度郡三保村(今の静岡県静岡市清水区)一帯では海岸が隆起して新たな土地を生じたたため、困窮する小前百姓らは三保村の藤五郎(遠藤藤五郎)を代表として、領主である御穂神社神官の太...
義民の史跡

森武七墓碑(森武七と郡内騒動)

天保7年(1836)、米価高騰に悩む甲斐国(今の山梨県)郡内地方の百姓らが、下和田村(今の大月市)の森武七を頭取に、米商人から押借をしようと決起しましたが、途中で無宿人が参加するなどして統制が乱れ、甲斐全土にわたる打ちこわしへと発展しました...
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金重大明神(金子重右衛門と太枡騒動)

寛政4年(1792)、甲斐国(今の山梨県)田安領で八代郡金田村(今の笛吹市)長百姓・金子重右衛門らが年貢徴収に係る代官所の不正を江戸の寺社奉行に越訴しましたが、身柄を田安家に引き渡され、重右衛門を含む3人が処刑されました。地元には重右衛門を...
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宝暦杉(宝暦義民と源五騒動)

宝暦6年(1756)、物価高と飢饉にあえぐ能登国宇出津組(今の石川県鳳珠郡能登町)の百姓が十村役・源五宅を打ちこわす「源五騒動」が起こり、中斉村甚左衛門ら7人が罪を負い獄死しました。宝暦8年(1758)にも宇出津組で年貢米の不足が摘発され寺...