平山霊神社

平山霊神社

先賢・循吏の史跡

広島藩の尾道町奉行となった平山角左衛門尚任(なおずみ)は、寛保元年(1741)の住吉浜埋立により今の尾道港の基礎を築き、感謝した人々から「平山霊神社」の生祠に祀られました。後には「平山市尹紀功碑」の建碑や「尾道みなと祭」の開催も行われるようになりました。

伝承の内容と背景

中世に商港として栄えた歴史をもつ備後国御調郡尾道町(今の広島県尾道市)は、江戸時代に入ってからも西廻り航路の寄港地としてますます船舶の出入りが盛んになりますが、それとともに土地の狭さや土砂の堆積が大きな問題となりました。

元文5年(1740)、広島藩の尾道町奉行となった平山角左衛門尚任は、今の中浜通り以南に当たる海面を埋め立てて土地を拡張するとともに、海底の土砂をしゅんせつして船舶の通航や係留をしやすくする大工事に着手しました。

工事は翌年の寛保元年(1741)に完成し、埋立地は宅地や共有の荷揚場として問屋・仲買人などに払い下げられ、藩財政をも潤しました。あわせて浄土寺住職・悟達泰真の「殊ニ海上守護之御神ニて御座候得は諸国ゟ船着の湊には相応之御神」との進言により、同寺境内にあった住吉神社が埋め立てられた新地に遷座し、奉行から報賽として先祖伝来の正宗の短刀が寄進されました。以来、この地は「住吉浜」と呼ばれ現在に至ります。

平山角左衛門は同年11月には尾道町奉行の任を解かれて広島に帰郷していますが、後年、彼の功績を偲ぶ人々により、住吉神社境内に「平山霊神社」が祀られました。加藤玄智『本朝生祠の研究』は、祀られた時期はおそらく寛保2年(1742)2月26日の「御庁祭」からとして、生きている人間を神として祀る「生祠」の一例に加えていますが、天保10年(1839)に小祠を建立したとする説もあります。この「平山霊神社」の御神体は、文政8年(1825)に安井屋仁右衛門・大紺屋貞兵衛の両人が奉納した平山角左衛門の木像です。

平山角左衛門は神社創祀から間もない延享2年(1745)に亡くなり、今の広島市にある妙慶院に葬られましたが、昭和51年(1976)、遺族の意向により、ゆかりの深い尾道市の浄土寺境内の地蔵堂脇に、「林樹院葉山夏渓居士」の戒名を刻む「平山角左衛門の墓」が移設されました。

そのほか、明治29年(1896)には最後の広島藩主・浅野長勲(ながこと)題額による「平山市尹紀功碑」が住吉神社境内に建立され、昭和10年(1935)からは住吉神社の例祭を中心とした市民ぐるみの祭として「尾道みなと祭」も始まりました。昭和43年(1968)には尾道市の名誉市民第1号に選ばれ、その功績が連綿と語り継がれています。

参考文献

『本邦生祠の研究 生祠の史実と其心理分析』(加藤玄智 明治聖徳記念学会、1931年)
『尾道市史』上巻(青木茂編著 尾道市役所、1939年)
『新修尾道市史』第3巻(青木茂編著 尾道市役所、1973年)

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平山霊神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

平山霊神社

場所

広島県尾道市土堂2丁目10-12

備考

「平山霊神社」は、尾道水道に面した埋立地の一角に鎮座する「住吉神社」の境内社です。
西瀬戸自動車道「尾道大橋出入口」から車で3分の位置にあり、専用の駐車場はありませんが、神社の100メートル東が尾道市役所の駐車場になっています。山陽自動車道「尾道インターチェンジ」からは国道184号を経由して車で15分ほどです。
公共交通機関を利用する場合、JR山陽本線「尾道駅」で下車して徒歩15分、または同駅からおのみちバス(東西本線)乗車3分、「長江口」バス停下車、徒歩5分です。
この住吉神社境内には、明治時代に有志により建てられた「平山市尹紀功碑」もあります。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)